風刺や下ネタを読み込んだ「狂歌」ブームに便乗して大もうけ
耕書堂が日本橋に進出した頃から江戸では空前の狂歌ブームが起こっていました。狂歌とは、五・七・五・七・七の和歌の形式の中で、社会風刺や皮肉、下ネタなどを盛り込んだもののことです。
狂歌は「連」と呼ばれるコミュニティで歌会が催され、当時の江戸の文芸界を牽引していた狂歌師・戯作者たちの多くは「連」を主宰していました。狂歌は本来その場で読み捨てられることが基本でしたが、目ざとい蔦重がこのブームを見逃すはずはありません。
「蔦唐丸」の狂歌名で「連」に参加することで、大田南畝をはじめとする人気狂歌師の出版権を確保したのです。また自らも歌会を主宰。そこで詠まれた狂歌を次々と独占出版することに成功します。
その後、徐々に狂歌人気に陰りが見えてくると、狂歌よりも挿絵である浮世絵中心の「狂歌絵本」にシフトします。
天明6(1786)年、当時を代表する狂歌師50人の肖像画を北尾政演(山東京伝の画家名)が描いた『吾妻曲狂歌文庫』はベストセラーになりました。すると蔦重はさらに思い切った狂歌絵本をプロデュースします。