残酷な処刑方法であるほど報酬額は高い

都市法は処刑人およびその助手に対し、手当てを定めていた。たとえば、1743年のプファルツ選帝侯領の料金表には、このように記されている。

ここから明らかであるように、近世でも中世以来の残酷な刑罰の方法の伝統を継承していた。料金表は細部にわたっているが、極刑である車裂きと四つ裂きの刑が最高で、次に絞首刑、剣による刑が続く。

拷問から処刑は連続している場合が多く、刑吏はそのため何重にも手当てを受け取ることができ、高給を得ていた(19世紀末の資料であるが、1ターラーで12キロのパン、肉なら6キロ、シャンパンなら2本。プロイセンの中級役人の年収は100ターラー)。

“闇医者”としても収入を得ていた

処刑人は通常、副業を行い、さらなる収入を得ていた。たとえば斬首の際に、傷口から大量の血が流出するが、見物している者は、先を争ってその血を求めた。

処刑人は容器で血をすくい、さらには布切れにそれを浸し、お金を取って販売した。その際、処女の血はもっとも高価で、ユダヤ人の血はもっとも安かった。市民は処刑人を差別していたにもかかわらず、なぜ血を求めるという行為に走ったのか。

この矛盾点についてK・B・レーダーの『死刑』によれば、処刑された者は犯罪人であったとしても神への供犠にあたり、その血は病気に対する治癒力を持つと信じられていたという。さらにその行為は、古代のカニバリズムや聖体拝領における赤ワインがキリストの血であるという解釈と繫がっている。

レーダーによると、1861年のハーナウにおける強盗殺人犯の処刑、1864年のベルリンの殺人犯の処刑の際にも、処刑人たちは多数の布切れに血を浸し、ひとつ2ターラーで販売したという記録がある。19世紀ですら、民衆の間では処刑された人の血が病気に効くという迷信が残っていた。

また、処刑人は日ごろ拷問を行う経験から、人体の構造に通じており、骨折や捻挫の治療など、闇ではあったが外科医としての仕事にたずさわった。かれらの治療技術は高く評価され、プロイセンのフリードリヒ1世(1657~1713)は、ベルリンで百人以上処刑したコーブレンツ処刑人を侍医にしていたほどである。その孫フリードリヒ大王(2世)も、1741年に処刑人に対して、骨折、傷病治療を許可した。