足の踏み場もない家で、母親から暴力を受けてきた

祐二さん(30歳)は、足の踏み場もない家で、母親から暴力を受けて育つ。小学6年生のときに里親委託されるが、里親家庭での生活が困難となり、4カ月後には児童自立支援施設に措置変更される。1年後に児童養護施設に措置変更され、高校卒業時までそこで生活する。

林浩康『里親と特別養子縁組 制度と暮らし、家族のかたち』(中公新書)

最も古い記憶は、3~4歳の頃、母親が家で掃除機をかけている場面である。その頃の母親は、最低限の家事はやっていた。しかし小学校入学前から家事ができなくなり、家がごみだらけになった。床が見えないぐらいに積もったごみの上に、布団を敷いて寝ていた。母親は金銭管理もできず、有り金をすべて使ってしまうので、毎朝父親が置いていくわずかなお金で生活していた。父親は母親からの暴力を避けるために、ほとんど家にはいなかったが、2~3日に1度、祐二さんを銭湯に連れていってくれたり、仕事が休みの日にはどこかに連れていってくれたりした。

小学校の高学年頃から自分の家の異質さに気付いていた。友達は祐二さんを自宅に招いてくれるが、その友達をごみだらけの家に招くことはできなかった。ごみの上に敷かれた布団に顔を埋めて、「このままこの家にいたら、人生どうなるんだ!」と叫んでいた。次第に家を避け、友達の家やゲームセンターで過ごすようになった。夜、仕事を終えた父親がゲームセンターにいる祐二さんを迎えに来て、母親の寝静まった家に一緒に帰る。そんな生活であった。

親にケアされるべき子どもが「親をケアする」状況

当初は自分の置かれた環境を当たり前として認識していても、祐二さんのように友人の家に遊びに行った際、自身の家庭環境の異質さに気付き、自己否定感が促されることもある。美和さんも祐二さんも年齢不相応な気遣いや体験を強いられ、本来親にケアされるべき子どもが逆に親をケアする役割を担っている面がある。美和さんは経済的に豊かな生活を送ってはいたが、父親の機嫌を過剰にうかがう生活を強いられ、母親もあてにはできず、親に甘えるという依存体験も叶わなかった。

子ども期に養育者に十分に甘えられず、依存体験を十分に積めないと、育ちづらさを抱えて青年期を迎えることもある。その結果、反社会的、あるいは非社会的行動が促される場合がある。普通の暮らしの中での生活体験や感情交流を主とした依存体験が十分に得られず、被害体験や喪失体験を抱える者にとっては当然かもしれない。

しかしながら、その後の人生において、家族ではない人との出会い、つながりにより、大きく人生が好転する人たちもいる。子ども時代の体験は後の人生に大きな影響を与えるといわれる一方で、それにより人の一生が決定されてしまうほど、人生の可能性は閉ざされてはいないともいえるだろう。

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