「子どもが出入りしない場所」に身を置く気持ち
中学校では居場所もないし、勉強もついていけないので、中学1年生の頃から学校へは行かなくなった。父親が夕方から深夜までお酒を飲んでいて、正座して父親の隣に座っていなければならなかった。その間はご飯も食べられなかったし、トイレにも行けず、ただそこに座って愚痴を聞かされるとか、殴られるとか、そういう生活がずっと続いていた。
父親が寝静まってから残った物で飢えをしのぐという生活であった。
義治さんは幼少期、母親には夜の仕事に、父親にはパチンコに連れていかれた。通常子どもが出入りしないこういった場に身を置いていたときの気持ちを話すことはなかった。また両親の言い合いを寝たふりをして聞くというのは、子どもにとっては過酷な体験であろう。
浩二さんは中学の頃から父親の酒の相手をさせられ、暴力も受けてきた。親とケア役割が逆転し、感情交流を通した依存体験も十分になされなかったであろう。
裕福な暮らしのなか、とにかく父が怖かった
美和さん(21歳)は、両親の離婚後、父親と生活。高校1年生のときに、父親の身体的、心理的な虐待により里親家庭に一時保護委託され、その後児童養護施設で19歳まで生活。
幼少期から感情の起伏が激しい父親を怒らせないようにとつねに気遣っていた。父親が一番厳しかったのはご飯を食べるときで、こぼしてしまったりすると、「出ていけ」と言われてレストランの外に立たされた。母親も父親の顔色をうかがって生きているような感じであった。暮らしは結構裕福で、クリスマスには家の近くのホテルに部屋を取ってパーティーをしたりしていた。学校もずっと私学で、語学ができるようにと幼稚園はインターナショナルスクールに通っていた。でも、そんな裕福な暮らしを楽しいと感じたことはなく、とにかく父が怖かった。
不思議なことに、母親のことを全然覚えていなかった。父親に反抗しない母親が好きではなく、なんで子どもを守らないんだろうと思っていた。母親は突然いなくなったりもしていた。ある日買い物に行ってくると言って出かけたきり戻ってこなくなった。自殺をほのめかすような話もしていた。今思えば、父親の女性関係とかでいろいろと溜まっていたんだろうと思っているが、当時は身勝手な人だなと思っていた。今は母親と関係が途絶えている。