親から離れて暮らす子どもたちはどんな困難を抱えているのか。乳児院、児童養護施設、里親家庭、養子縁組家庭等で暮らした経験をもつ人々にインタビューをしてきた、日本女子大学人間社会学部教授の林浩康さんは「子ども期に養育者に十分に甘えられず、依存体験を十分に積めないと、育ちづらさを抱えて青年期を迎えることもある。しかしながら、その後の人生において、家族ではない人との出会い、つながりにより、大きく人生が好転する人たちもいる」という――。

※本稿は、林浩康『里親と特別養子縁組 制度と暮らし、家族のかたち』(中公新書)の一部を再編集したものです。

「出ていけ」と言われ、姉と家を出て交番へ

筆者はこれまで、親から分離され乳児院、児童養護施設、里親家庭、養子縁組家庭等で暮らした経験をもつ方々にインタビューを行ってきた。その中から、ここでは施設や里親家庭で暮らす以前の生みの親との生活状況について語られている部分を抜粋し、その体験事例をまずは共有したい。名前はすべて仮名である。

玲子さん(24歳)は、幼少期は家族一緒に暮らしていたが、そのときの記憶はほとんどない。玲子さんは「記憶を消していると思うんです」と語る。児童養護施設に入所した経緯については、父親の暴力が原因で母親が幼少期に家を出ていき、その後、父、兄、姉とで暮らしていた。あるとき父親にひどく叱られて「出ていけ」と言われ、姉と家を出て交番に行き、小学1年生の春休み中に一時保護された。小学2年生の4月から児童養護施設で暮らすことになった。

公太さん(21歳)は、小学2年生のときに児童養護施設に入所したが、暴力事件を起こし、非行少年等が入所する児童自立支援施設で生活。その後、児童養護施設に移り、高校に入学するが2カ月で中退。再び暴力事件を起こし、少年鑑別所、少年院で生活。退院後、自立援助ホーム(家族と暮らせず、一人暮らしにも無理がある義務教育修了後の子どもたちが生活する施設)や、更生保護施設で生活。ここでも暴力事件を起こし、現在は保護観察中で一人暮らしをしている。

ラーメンのすすり方もわからなかった

両親と妹と小学2年生まで一緒に暮らしていたが、小さい頃の記憶はあまりない。母親が怒って、椅子やリモコンを投げてきたり、父親がお酒を飲み暴れて殴られたりした記憶しかない。

小学2年生のとき、両親が家に帰ってこない日が続き、公太さんと妹の2人だけで生活していた。小学校に妹を連れていったときに担任の先生が心配してくれ事情を話したら、その日に妹と一緒に児童相談所に一時保護された。家では卵かけご飯とお茶漬けしか食べたことがなかったので、夕食に出たラーメンの食べ方がわからなかった記憶がある。一時保護から家に戻れるのかという不安が大きかったのを記憶している。

ラーメン
写真=iStock.com/SutidaS
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玲子さんは、幼少期における家族一緒の記憶がほとんどない。筆者がインタビューを行った他の人たちからもそうした発言をよく耳にした。「記憶を消していると思うんです」と語ったように、過酷な体験については覚えていない傾向にあることが理解できる。公太さんのように、多様な養育場所を体験すること自体、大きな不安感や喪失感が積み重ねられる。生活体験が乏しく、ラーメンのすすり方もわからなかった。暮らしの中で学ぶことは多々あるが、そうした体験も乏しく、生活する上での多様な術が身に付いていないことが予測できる。体験格差が将来的に及ぼす影響も大きいだろう。