女性の旅行は許可制、中絶は禁止、男女別学

亡命先から戻ったホメイニーは、神政国家を構築した。新たに生まれたイラン・イスラム共和国では、イスラムの教えや少なくともその解釈に反するとみなされる法律は、すぐに無効とされた。

さっそく犠牲になったのは、女性の権利だった。聖職者らは、かつてのような古風な性役割への回帰を強く求めた。

まもなく、女性が国外に旅行するには、男性保護者の許可が必要になった。学校は男女別学になった。中絶は禁止された。女子の法律上の結婚開始年齢は、18歳から9歳に引き下げられ、その後13歳に引き上げられた。児童婚への扉が再び開かれた。同性愛を公言する男性は、厳しい処罰を受け、死刑になることさえあった。

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「ヒジャブ着用義務化」に起こった反発

さかのぼること1936年、皇帝パフラヴィーの父親は、女性が人前でベール(ヒジャブ)を被ることを禁止する決定を下し、議論を呼んだ。だが、革命後は一転して、ベールの着用が義務となった。古いやり方への回帰を求めていた一部のイラン国民は、この保守的な転換を歓迎した。

イランの伝説的な活動家で、1918年に保守派の強いイスファハンという町に初めて女子校を開設したセディーゲ・ドウラターバーディーの記念碑は、破壊された。ドウラターバーディーは、1926年にパリで開かれた女性参政権会議からの帰路で、公然とベールを着用しなかったことでも知られている。

革命後のこうした変化に対して、自由を失うのではなく自由を得たいと望んでいた人々からは、すぐに反発が起きた。ベールの着用を義務づける規則が発表されると、数千人が集まって、首都テヘランの通りを行進した。

「大規模なデモ行進でした。学生、医師、弁護士など、あらゆる職業の女性が参加し、男性もいました。私たちは政治や宗教の自由、そして個人の自由を求めて闘っていました」と写真家のヘンガメ・ゴレスタンは、数年後のインタビューで当時を思い出して語った。

抗議運動の目的は、ベールの着用に反対することではなかった。ベールを被りたいと考えるムスリム女性は、皇帝から着用を禁じられたことで屈辱と苦痛を感じていた。ベールを被らずに外出するのが怖くて、家に引きこもる女性もいた。

デモ行進の目的は、着用を女性自身で決められるようにすることであり、ベールは個人の自主性の問題だった。

「皇帝も、ホメイニーも、どんな男性も、私に思いどおりの服を着せることはできません」。『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者によると、弁護士のファルザエ・ヌーリは群衆に向かってそう訴えたという。