残された一人娘は超大物に
だが、万寿4年(1027)4月、姸子は病に襲われる。最初は頸と肩の激痛に襲われ、次第に食事も摂れなくなり、7月には手足に浮腫が生じて、重篤な状態になった。そして9月14日、すでに虫の息の彼女は髪を切るしぐさをして出家の意志を伝え、亡くなった。34歳だった。
そのとき姸子の遺髪を捧げ、一緒に連れていってほしいと言った道長は3カ月後の12月4日、62歳で生涯を閉じている。
ところで、姸子が産んで道長に歓迎されなかった禎子内親王は、その後、彰子の第二皇子である後朱雀天皇に入内した。そうして産まれた尊仁親王は、のちに後三条天皇として即位し、両統迭立を解消した。それまでは、ともに村上天皇の子である円融天皇の系統と冷泉天皇の系統が、交互に即位する習わしだったが、その血をひとつにつなげたのが禎子だった。
さらには国母として、陽明門院と号してからもふくめ、叔母である上東門院(彰子)に勝るとも劣らない権勢を誇ることになるのである。