「お陰で女性ファンもふえた」しかし…

第14代球場長を務めた川口永吉さんは、著書『甲子園とともに』(1969年、昭和44年刊)の中で「女性ファンを喜ばせた鉄傘」の小見出しを打ち、「あの鉄サンのお陰で女性ファンもふえた。直射日光に当たらず、野球を観戦――女性本来の“美”をそこなう心配が甲子園に来てもなかったからである」と記している。

ただ、甲子園にも、戦争の暗い影が忍び寄ることなる。1942(昭和17)年、軍が主導し、文部省が主催した「全国中等学校錬成野球大会」(別名・幻の甲子園)を最後に、大会が中断すると、1943(昭和18)年、太平洋戦争の最中に、軍部への金属供出のため、すべての鉄傘が撤去された。1トンあたりの価格は90円(当時)、全体で9万円という安値で売られたが、結局放置されたまま、軍事利用されることはなかったという。

その後、スタンドは高射砲陣地、グラウンドも内野は芋畑、外野は軍用トラック置き場など、軍事施設となった。広島に原爆が投下された1945(昭和20)年8月6日には大空襲を受け、三日三晩燃え続けたという記録も残る。大会自体は終戦の翌年から開催されたが、GHQに接収されていたため使用できず、1947(昭和22)年にようやく甲子園での大会が復活した。

あまりの猛暑に「足がつる」球児が続出

屋根が戻ってきたのは1951(昭和26)年、撤去から8年後のことである。アルミニウム合金の一種であるジュラルミン製で作られたことから「銀傘」と呼ばれるようになった。その後、1982(昭和57)年にはアルミ合金製でリニューアルされた。

2007(平成19)~10(平成22)年に行われた「平成の大改修」では、開場当初のように、内野スタンドの両端まで覆われる現在の「4代目銀傘」が誕生した。材質もガルバリウム鋼板製に切り替わると、屋根上には太陽光パネルも設置され、年間で約19万3000キロワットを発電。これは甲子園で行われるプロ野球のナイトゲーム開催時の照明が年間に消費する電力量の約2倍に相当するという。

また、屋根に降った雨水を地下タンクに貯蔵する機能も設置。敷地内の井戸からくみあげる井戸水と合わせて、グラウンドへの散水やトイレの洗浄水として、年間に使用する水量の約65%をまかなうなど、時代に合わせ、その姿を変えてきた。

だだ、変化を続ける甲子園と同様、真夏の気温も大きく様変わりしてきた。気象庁によると、甲子園にほど近い神戸の8月平均気温は、甲子園が開場した1924年は27.5℃だったのに対し、今年は観測史上最高となる30.2℃と、100年で3℃近く上昇した。

毎日のように熱中症警戒アラートが発令され、屋外での運動を控えるように促される中、近年は試合中に足がつる球児が続出している。各校応援団が陣取るアルプス席では、熱中症で緊急搬送される生徒や観客も少なくない。