リアルな中国社会が描かれているからこそ学びがある
――『水滸伝』と『三国志演義』にはどのような違いがあるのでしょうか?
物語で描かれている「組織」が違うんです。三国志演義は「桃園の誓い」に象徴されるように、漢の再興を目指す劉備という聖人君子的なリーダーのもとに忠誠心に篤い諸将が集まる。西遊記も観音様の命令で「天竺に経典を取りに行く」という明確なミッションがあり、やはり聖人君子の三蔵法師に忠誠を誓う孫悟空たちがしたがう。いずれも理想的なチームですが、現実の社会においてそんな素敵な人間関係はありません(笑)。
一方の水滸伝は、梁山泊に組織としての明確な目標はない。「王朝のため」という目的は後付けです。108人の豪傑たちも、個人的な義理人情を超えて組織や国家のために働く意識は弱い。彼らが梁山泊に来た理由も、「仲の良い人(義兄弟)がいるから」「罪を犯して逃げ場がないから」といった個人的かつ場当たり的なものがすくなくない。
明確な理念もなく集まった豪傑たちが好き勝手に振る舞う梁山泊という集団を、リーダーの宋江はそれなりにまとめあげます。宋江も聖人君子ではなく、割とクズなのですが、そういう人がお山の大将たちをまとめて、そこそこ結果を出す。これは中国社会では実に現実的な話です。
中国のローカルな組織で仕事をした経験がある人には「あるある」の話なんですが、中国の労働者は基本的に、上司の個人的な子分でもなければ組織への忠誠心は弱い。自己都合で転職も繰り返します。中国的な組織と付き合うなら、『三国志演義』よりも『水滸伝』のほうがリアリズムがあります。
中国のネット上に「『水滸伝』宗江の人材活用術」、「『水滸伝』における企業経営マネジメントの道」といった記事がいっぱいあるのも、そういうことなんでしょうね。
中国に関する「雑な議論」は危険
――中国と向き合う上で、現在の日本にはどんな問題があるのでしょうか?
こうして見ていくと、歴史を知らずに現代中国を語ることが、いかに不用意か分かるはずです。実のところ、日本の中国史研究は相当な蓄積があるすごい分野なのですが、かつての日中戦争に協力したことの反省もあって、その知見が現代中国を語るために使われない時代が長く続いてきました。
ただ、中国の国力が日本を上回って現実的な脅威になっている昨今、さすがに過去のタブーを脱してもいいような気がします。また、中国に関して専門知にもとづかない粗雑な言説が大手を振るういまの言論空間は、明らかに不健全です。中国は経済的な依存関係が大きい一方、軍事やインテリジェンスの面では明確な脅威でもありますから、いまの日本で「雑な議論」は普通に危険でしょう。
中国の古典や歴史から、そこから現代中国を分析していくアプローチも、中国と対峙する上で必要なことだと思います。