彰子の妊娠に最初に気づいたのは3児のパパ、一条天皇だった

そして、寛弘5年(1008)正月、彰子の懐妊が発覚。最初に気づいたのは一条天皇だったようです。『栄花物語』にこんなくだりがあります。

(彰子が)正月になっても同じようなご気分で、じつに眠たくなったりなさるので、天皇がいらっしゃって「『去年の十二月に月の障り(月経のこと)もなかった。この正月も二十日ほどになって、身体の具合がいつもとちがうようだ』とおっしゃるらしい。私にはわからないが、普通のことではないのであろう。父大臣や母君などに申上げよう」とおっしゃると……。
(『栄花物語』巻八)

既に定子との間に3人の子がいた一条天皇は、妊娠の兆候にも詳しかったようです。実は彰子も既に悪阻つわりが始まったことを自覚していましたが、両親には伝えていませんでした。

大河ドラマで描かれたように、紫式部はこの彰子の最初の懐妊の時から『紫式部日記』を書き始めました。

秋のけはひ入り立つままに、土御門のありさま、いはむかたなくをかし
(秋の気配が始まるにしたがって、彰子の実家である土御門邸の様子は、言葉では言い表せないほど趣がある)

という書き出しで始まり、出産の日の様子を細かく観察して書き残しています。彰子は夜中から産気づき、そこから一昼夜以上かかった難産となりましたが、もともと、かなりの気力と体力をもっていたのでしょう。無事に皇子を産みました。

彰子の初産は30時間かかるが、皇子誕生に道長は大喜び

30時間もの分娩の間、紫式部は、ひたすら安産を祈るうちに、いつの間にか殿方と同席して座っていて、泣きはらし、化粧も取れた顔で、お互いに顔を見合わせて放心状態になり、その非日常的な様子を生涯忘れることはできなかったと書いています。

待望の皇子が誕生し、道長はもちろん大喜びでした。誕生から9日目のお祝いの席で、皇子を乳母の懐から抱き上げたとき、尿を引っかけられても「うれしいものだ」と喜んでいたぐらいですから。

藤原道長像(画像=東京国立博物館編『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

敦成と名付けられた親王は、のちに後一条天皇となって即位し、外祖父である道長が「この世をばわが世とぞ思う」と歌に詠むような絶頂期をもたらします。しかし、道長の幸運はこれだけで終わらず、寛弘6年(1009)、彰子は第二子に当たる敦良親王を出産します。このときは、分娩に4時間しかかからず、初産のときが嘘のような安産でした。

それまでの彰子は入内から10年近くも懐妊の兆しがなく、父・道長を始め、周囲から無言のプレッシャーを掛けられていたはずです。ゆえに皇子を2人ももうけることができたこの3年間は、自他共に認める天皇のキサキとして心穏やかに過ごせた時期でしょう。