彰子が24歳のとき、一条天皇が崩御し、幸せの絶頂から暗転

しかし、幸せな時期は長く続きませんでした。一条天皇は体調を崩し、敦良親王が生まれてわずか2年、寛弘8年(1011)、32歳にしてあっけなく崩御してしまいます。

服藤早苗『人物叢書 藤原彰子』(吉川弘文館)
服藤早苗『人物叢書 藤原彰子』(吉川弘文館)

そのときの辞世の歌が、臨終の瞬間までそばにいたという彰子ではなく、亡き妻・定子に当てたものではないかと、藤原行成を始めとする側近たちは感じたようです。しかし、道長は「歌は中宮(彰子)に向けたものだ」と日記に記しています。定子と彰子は、一条天皇という夫をはさみ、その死の瞬間まで比較される立場でした。

まだ24歳なのに夫を亡くしてしまった彰子の嘆きは、かなり深かったようです。敦成親王がなでしこの花を手に取ったのを見て、「父親の死がまだわからない我が子を見ていると、涙がこぼれる」という意味の歌を詠んでいます。

見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子なでしこの花
(見るにつけても涙の露がこぼれる。後にのこされたこともわからず撫子の花を手にした愛しい子よ)
後拾遺和歌集』巻10「哀傷」、569番

養母として敦康親王の立場を守ろうとし、父の道長に反発

一条天皇が崩御する前、その次の次の天皇、つまり跡を継ぐ三条天皇の東宮(皇太子)は、定子が産んだ敦康親王ではなく、彰子が産んだ敦成親王と決まります。そのときも、彰子はわが子を優先して喜んだりはしませんでした。

藤原行成によれば「彰子は、道長を恨んだ」。なぜなら、道長が天皇の譲位を東宮に伝えるため、彰子の御在所の前を通ったにもかかわらず、彰子には知らせず、東宮が誰になったかという事実を隠していたからです。行成も「大事なことなので、ちゃんと伝えるべきだった」と書き残しています。

彰子は養母として育てた敦康親王を先に皇位につけ、実子の敦成親王はその後でよいと思っていたのでしょう。そんな彰子の公平さと思慮深さは、一条天皇亡き後、そして道長亡き後も発揮されていくことになります。

【関連記事】
「私が死んだら血の涙を流して」寵愛されるも勢力争いに翻弄され25歳で産褥死した皇后・定子の辞世の歌と遺書
夫・一条天皇への愛が少女を大人に変えた…「うつけ」と呼ばれた中宮彰子が「天皇家を支える国母」になるまで
定子のように一条天皇には愛されなかったが…父・道長亡き後に宮廷のトップに立った彰子の波乱の人生
「お願いだから道長もうやめて」と言いたくなる…中宮彰子の懐妊→出産で父の藤原道長が起こしたドタバタ劇
藤原道長にいいように利用され、最後は天皇の座を奪われた…2人の中宮を持った一条天皇が迎えた悲しい最期