東京ドーム1.3個分の島内でお祭りなどのイベントも開かれた
毎年4月3日に行われる「山神祭」で参加した「奉納相撲」についても振り返る。「小学校低学年の頃は、よくおふくろに『相撲行ってこい!』と言われて、いやいや参加していました(笑)。大人部門には番付もある、わりと本格的な催しで。昔、端島小中学校のグラウンドに屋根付きの土俵があったんですが、終戦の年に、昭和の大横綱『双葉山』が慰問に来た際に作られたものじゃないかな」
電気屋の店番や、夏季の殺虫剤散布など、島内ではさまざまなアルバイトも経験した。中でもユニークなのが、小学生時代にお小遣い稼ぎでやっていたという“虫の捕獲”だ。
「ハエは1円、アマメ(ゴキブリ)は2円、ネズミは30円とかだったかな。役場に持っていくと買い取ってくれるの。ハエはね、映画館裏のゴミ捨て場にいっぱいおるわけよ。そこでハエ叩きでやっつけたハエをマッチ箱に詰めて持って行きよった」
人口密度の高い端島では伝染病なども流行しやすいため、こうした取り組みをはじめ、「島民たちの衛生観念はとても高く、島内はいつも綺麗だった」と石川さんは話す。島民はみな島をきれいに保とうという志で生きていたのだ。
少年時代を端島で過ごし、アパートの屋上で「ゴロ野球」をした
端島唯一の映画館「昭和館」の映写技師をしていた父親のもとに生まれた木下稔さん。1953(昭和28)年から中学2年生になる1966(昭和41)年までを、端島で過ごした。
4人姉弟の2番目となる木下さんが生まれた時に、父親は、より待遇のいい炭鉱夫に転職した。「母親に連れられてよく詰所まで父を迎えに行きました。父は喜んでくれたけど、僕は『この人誰だ⁉ さらわれる!』と怖かったのを覚えています(笑)。坑内から上がってくる人たちは目と歯以外は顔まで真っ黒で、誰が誰だかわからなかったから」
少年時代は、特異な環境を活かした端島ならでの遊びを楽しんだ。
「小学生の頃は、アパートの屋上でゴロ野球をしました。屋上は広かったけど、かまどの煙突が等間隔に並んでいてジャマでね(笑)。ボールを高く打つと煙突に当たるから、地面を転がすようになったんです」
屋上からボールが地面に落ちて、ボールをなくすことはしょっちゅうだった。ボールがなくなれば、女の子に混じってゴム跳びに興じたそう。