退官後の仕事は未定だったが、公職を次々にオファーされ活躍
退官後の身の振り方はまったくの白紙でしたが、嘉子さんを周囲は放っておきませんでした。
方々から声がかかり、嘉子さんはいくつかの公職を持って、在官時同様、忙しく活動していくことになります。
野に下って1カ月後の昭和54年12月から、労働省の男女平等問題専門家会議の座長に就任。この会議で嘉子さんがまとめた「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」と題する報告は、その後制定される「男女雇用機会均等法」に生きることになります。
ほかにも、昭和54年6月には「日本婦人法律家協会」の会長、昭和55年1月には東京家庭裁判所の調停委員と参与員、同年5月には「東京少年友の会」の常任理事、さらに昭和56年10月「社団法人農山漁家生活改善研究会」理事、昭和57年8月に東京都の人事委員会委員、昭和58年7月には労働省の「婦人少年問題審議会」委員などを歴任。加えて昭和55年には、第二東京弁護会に弁護士として再登録もしています。
戦病死した最初の夫のことを37年後も忘れずに思っていた
退官後、嘉子さんは先に退官していた乾太郎さんと海外や国内に旅行をして、充実したリタイヤライフを送りました。
その一方で、退官後の嘉子さんの日記には、前夫・芳夫についても記しています。
そのひとつは、戦争が始まり、嘉子さんと同様に夫が召集された友人(平野露子さん)と一緒に、亀の甲羅に夫の名前を書いて放ったおまじないにまつわる出来事です。
亀を放ってから37年後の昭和56年3月23日の嘉子さんの日記です。
「裁判所の午後の調停に出勤する途中、日比谷の鶴の噴水のある池の端をブラブラ歩いていると、60歳を過ぎた男の人が私に話しかけてきた。
『あの亀は生きた亀ですか?』と。
池の水際に角が首を伸ばして、不動の姿勢でいる。反対側にも動かぬ亀がいる。いずれも相当、年を経た亀のようだ。
『生きていると思います。そういえば戦争中、徴兵逃れに亀の甲にその人の名を書いて、この池に放すといいということで、私も友人と一緒にここに来たことがあります』
私は平野露子さんと一緒におまじないをしに来たことを思い出して、老人に思わずそんなことを話してしまった。
『そうですか。あまりにも動かないものだから、生きているのかしらと思って』。その人は「失礼しました』とあいさつをして歩いて行ってしまった。
あまりにも品格のある亀の姿に、私は戦時中に願をかけて放った亀が、30年余りもここにすみついていたに違いないような気がしていた」
今は亡き前夫にも、嘉子さんは変わらぬ思いを抱いていたようです。