父親は女性の自己主張を毛嫌いする日本社会を疑問視

嘉子が2歳になった時、貞雄はニューヨークに転勤となり、彼女は母・ノブとともに丸亀の実家へ戻って父の帰国を待った。シンガポールから日本へ。嘉子もまた周辺環境の激変に困惑しただろうか。しかし、当時はまだあまりに幼く、丸亀での暮らしについて彼女はほとんど記憶していない。

大正9年(1920)になると、貞雄は4年間のニューヨーク勤務を終えて東京支社に戻ってきた。一家の東京での新生活が始まる。東京に引っ越してから間もなく、嘉子は家の近くにあった早蕨さわらび幼稚園に通うようになった。

アメリカでの生活を経験した貞雄は、もともと持っていた自由主義的思考がさらに強くなっている。女性の自己主張を毛嫌いする日本社会には疑問を抱いていた。だから、娘の言動をむしろ面白がっているようなところがある。嘉子の最大の理解者であり、心強い応援団だった。

母親は「女が個を主張しないほうがいい」と心配する

母親のノブにはそこまでの確信はなかった。やりたいことをやらせてあげたい。そう思う反面、このままで娘は本当に大丈夫だろうか? と、不安にもなる。心境は複雑だった。また、昔から教え込まれてきた固定観念がいまだ強く残り、女が幸福を得る手段は良縁に恵まれることしかないと思い、これを否定することができない。

女が良縁に恵まれるには、個を主張しないほうがいい。一歩身を引いて夫に従う良妻賢母であること。最愛の娘がそれと正反対の道に突っ走っていたのだから、それは心配にもなってくる。

青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)

このままでは困る。が、自身が義母に監視されつづけて抑圧された日々のことを思うと、嘉子にはそんな苦しさを味わわせたくはない。シンガポールでの自由な生活を知らなければ、いまもそれが普通と信じて、娘の行動をすべてワガママだと抑えつけて口うるさく説教していたかもしれないのだが。

しかし、娘の世代には自分と違った価値観がある。それを知ってしまったがゆえのジレンマ……。娘の行く末を不安視しながらも、よほどのことがない限り干渉することは避けていた。

そんな両親のもとで育まれ、嘉子は自由にのびのびと成長していった。

そして、当時、入試の倍率が20倍にもなった最難関の東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学付属高校)に合格。そこでもトップクラスの成績を維持する。

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