1914年、帝大出の父親のシンガポール赴任中に生まれた
三淵嘉子は大正3年(1914)11月13日にイギリス領シンガポールで生まれている。名前に使われている「嘉」の一字も、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来する。
嘉子の父・武藤貞雄は東京帝国大学法科卒業のエリート。彼が勤務する台湾銀行は大正元年(1912)にシンガポール出張所を開設し、そこへ転勤を命じられて新妻のノブを伴い赴任していた。
貞雄は四国・丸亀の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子だくさんだった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。
直言には子どもがいない。自分と血のつながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。
嘉子の母は資産家の養女で、継母に厳しくしつけられた
武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれをたたき込んだ。便所紙を使いすぎるとか、ささいなことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。
義母はかなり細かく几帳面な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまたしっ責される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。
義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人からしかられているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。
ノブは晩年になってから、子や孫たちによく自分の昔話をするようになる。そこに義母の話がでてくると必ず「性格のキツイ人」「厳しい人」といった表現が使われる。
母と娘というよりは、嫁と姑のような感じでもあり、長い年月が過ぎていたのだが、わだかまりは残っていたようだ。
それでも女学校には通わせてもらった。女学校卒の経歴は、それなりの階層においては結婚に有利な条件のひとつになる。義父母にはそんな思惑があったのだろう。もっとも、この時代はどこの家でも娘を女学校に通わせる目的はそれだった。