ゆえに企業では、スキルが優先され、センスは劣後してしまう。基準が明白なのでスキルはシステムに組み込みやすく、インセンティブに直結するため努力も促しやすいのです。社内に必要なスキルを持った人がおらず、育成する能力もなければ、労働市場で調達する(スキルを持った人を採用する)ことも可能です。

しかし、経営において真にモノを言うのはセンスです。ビジネスパーソンとりわけ経営者の仕事の本質は、意思決定にあります。どれかを、あるいはどちらかを選ばなくてはならない。その際に「良いこと」と「悪いこと」が選択肢になっていることは、まずありません。誰にでも優劣が判断できるなら、選択の余地すらないからです。

ゆえに、複数の両立しない選択肢に対して「一理あるな」と言っている経営者は二流です。経営に求められるセンスとは、良し悪しの基準がないところで、優劣の付けがたい複数の「良いこと」(あるいは悪いこと)からどれかを選び、残りを捨てることだからです。異なる理の中からどちらを選び取るかは、自分の価値基準に照らして決定するしかありません。その決定こそが経営におけるセンスなのです。

センスは人それぞれ“自分なり”のものであり、人生のすべての局面に影響し、また、あらゆる場面で磨かれます。どんな街に住み、どんな人と会い、どんな話をするか。自分で判断し、決定し、選択する――。自分の頭と手を使った経験を積み重ねる中で自分なりの判断基準が出来上がり、価値観が形成され、センスが磨かれていくのです。

センスが発揮され、磨かれる選択の中には、どんな本を読み、どう本を読むかも含まれています。定量的に測ることができないセンスに教科書はありませんが、読書そのものはセンスを磨くのに有効な手段なのです。

分母を増やす読書では人間が大きくならない

「出会いや対話でもセンスが磨かれるなら、わざわざ読書でなくてもいいのではないか」と思われる方もいるでしょう。ですが、数多ある手段の中でも、読書は抜群にコストパフォーマンスに優れているのです。都合の良い時間に始められ、いつ中断するも終わるも自由。普通なら到底出会えないような大物と、驚くほど安価に対話することができるのです。

今、手元にイギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミル(1806〜73)が著した『自由論』があります。岩波文庫の白版から出されているもので、裏表紙には910円(税別)と書いてあります。これは訳本ですが、原書は1859年に出版されました。165年にわたって時代の評価を耐え抜いてきた価値観と、910円で向き合うことができるなんて、最高だと思いませんか?

読書は本質的に「対話」です。文を咀嚼しながら自らを内省し、著者との対話を通じて自分の価値観を形づくり、強固にし、センスを磨き上げていく。それは多読や速読が求めるものとは、まったく別個のものです。

多読や速読はスキルそのものです。「明日のプレゼンまでに関連資料すべてに目を通し、情報を仕込まなければ」といった場合には、そうしたスキルも生きるでしょう。ですが、読書に効率だけを求めているような人で、ピリッとした面白さを備えた人物を、私はいまだかつて見たことがありません。

分母をいくら増やしても、分子が増えていかなければ数字は小さいままです。読書においても同じ。書物から得られるものの考え方や視点、価値基準は、まさに“一生モノ”ですが、読んだ本の数をどれだけ増やしても、一冊の本から得たものが少なければ、人間は小さいままです。

私が本を読むときには、重要な部分に線を引いたり、書き込んだり、これはと思うポイントはメモに書き出して後から時折見返したりしています。ですが、本の読み方は人それぞれなので、ノウハウ的なあれこれを言いたくはありません。あなたなりの方法でじっくり本と向き合い、著者と対話し、センスを磨き上げていってほしいのです。