「成功者の子息を採用すると活躍しやすいのか?」と聞けばよかった
ただ私は、躊躇いもなく、「カルチャーフィット」だの「チャーム」だのというそれっぽといことばで、好き嫌いにも近そうなことが判断され、本人はおろか、採用関係者の中でもそれに異議を示すことが難しかった、という事実に無力感と違和感をいまだに覚えます。
せめて私も、「プラチナ住所」ということばに圧倒されていないで、「成功者の御子息を採用すると、あとあと活躍しやすいなど、依拠すべきご経験がおありなんですね? 後学のためにお聞かせください」くらい、その部長に尋ねてもよかったでしょう。
採用で肝要なのは、差別なく、双方にとって相性のよさを見極め合う機会が作れている場か否か、ですから。
不合格となった、反骨精神のあるタイプの彼とはその後話していないので、どう思ったのかはわかりません。でも、面接である程度の手ごたえもあったから、「育ててもらった人や社会に恩返しがしたい」と熱く語ったのだと思うと、
「結局こういうことか……」
とがっかりした、もっと言えば、「傷ついた」のはまず間違いないのではないでしょうか。きっとどこかで活躍していることと想像しますが。
選抜の基準がわからないまま「合格」「不合格」になるのは傷つく
就活の「傷つき」の事例を改めて見てみると、「選ばれる(選抜される)」よろこびと、「選ばれない」悲しみと、実に悲喜こもごもの様相だとも言えます。
将来の大事なことについて、選抜の基準がよくわからないまま、選ばれたり、選ばれなかったり。つまり、解せないことが起きている。そんなことがあれば誰しも、混乱したり、落ち込んだり、心揺らぐものではないでしょうか。
しかし、いくら「傷ついた」としても、選ばれなかった側に、発言権はありません。仮に発言したところで、「負け犬の遠吠え」「ルサンチマン(ねたみ)」「だからできないやつなんだよ」くらいの返り血を浴びてしまいそうです。
基準がどうであろうが、選抜の決定権を持つ側に生殺与奪の権は握られているのです。
となると、傷口はそのままに、とりあえず前を向くしかないという状況なわけですが、これを二重の「傷つき」と呼ばずして、なんと呼びましょう。
何をどう努力すれば、確実に就職できるのか。神のみぞ知るような状態で、そんな不透明で不公平な社会をも、強く、しなやかに、生きていけと叱咤激励という名の放置が許されてしまう。はっきり言って……、「傷つき」ます。