そもそも過去の話である学歴が未来の就職の決定権があるのか?

さてここで考えたい(問題提起しておきたい)そもそも論が、2つあります。

① そもそもなんで学歴(学校歴を含む)は、過去の話なのに、仕事という未来の話の決定権があるのか?
② そもそもどう見ても理不尽なのに、学生はなぜ「就活で傷ついた……社会は狂っている!」と言えないのでしょうか?

という点です。

これは、壮大な社会的構造の問題があります。

①は、企業も「職業的レリバンス」と呼ばれる研究(大学の難易度と、仕事を滞りなく遂行することとは、どう関連しているのか? を明らかにする研究)をする学問側も双方で、ある事情から、問題を指摘しきれていないことが大きく関係していると私は見ています。言ってしまえば、「仕事の遂行を完全に予見するために、本当はどの情報が必要なのか?」が、よくわからないままなのです。

また、②については、メンバーシップ型雇用前提の新卒一括採用というシステムの影響が多大と考えます。その波を逃すと、正規雇用に乗れない。文句を言ったり、泣いたりしている暇があれば、就活で「勝てば」いいだけ。そんなことで戦ったらそれこそ「負け」、という話に合理性の軍配が上がるのです。

就活面接
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就活は「社会の厳しさ」を見せつける通過儀礼になっている

そうして、学歴が未来の仕事のパフォーマンスを予見する意味では、雑音か定かではないまま、今日も元気に企業や就活サイトは、「学歴フィルター」機能を裏で活用しつつ、学生に「社会の厳しさ」を見せつけています。また学生側も、嘆いても仕方のない、社会の掟として、傷つこうが涙を飲んで、就活という「儀式」を通過していく――問うてはいけない「通過儀礼」としての就活が見えてきます。

内実がかなり怪しいものなのに、それを問う暇もなければ、事実上の権利もない。そんなよくわからないものに生殺与奪権を握られる。

とこれはディストピア(反理想郷、ないしは地獄絵図)そのものです。心を削るのに、そんな弱音の1つも吐くような真似は、「豆腐メンタル」のダメ就活生の烙印が押されるなんて、傷つかないわけがないのです。

また、別の例もあります。次も採用スクリーニング(選抜)に関する逸話です。

とある企業の採用をコンサルタントとして支援したときのこと。

先の学生の話のように、就活サイトの管理画面で、どの大学ランクまでメール配信に入れるかどうかや、そもそも説明会の予約枠をどの範囲まで持たせるか、なども一緒に考え、実際に画面を見て、操作することもあったくらい、入り込んで支援をさせていただいていました。

そこでこれでもか! というくらいの、「学歴不問」という名のフィクション、学歴/能力主義社会のイニシエーションを見るに至ったわけですが、「傷つき」という文脈で、どうしても振り返りたい事例があります。