野村の営業の強さは「駅伝です」

「反対している人にも信頼される人間にならなくてはいけない。結局、人は信用する相手と仕事をするんです。そして、すぐには信用してくれません。付き合って3年たち、5年たち、10年たてば、人は信用してくれます。長期継続的に取引していることが信用なんです。

証券会社の営業マンといえば押しが強ければやれると思われていますけれど、そんなことはないです。長期的に取引してもらえる人間になるしかない。野村證券のいいところって、押しの強さではなく、長期でモノを考えていることなんです。そして、得た人脈、取引はすべて後輩に渡す。野村の強さって駅伝ですよ。自分で独占するのではなく、どんどん次の担当に渡す。それがずっと続くんです」

彼は2024年3月31日に退職して、自宅に帰ることなく、羽田に行った。その日の深夜便でタイに行き、翌日の4月1日にはベンジャロン焼の営業に出た。

本人提供

「『うちの会社で経営しないか』という具体的な話もいくつかありました。しかし、母親が80歳を超えてひとりでタイにいるのに、私が日本で働くわけにはいかない。もう、母親は仕事ができる状態ではないんです。住居と店舗を往復するだけでここ数年、それ以外のところには行っていません。飛行機に乗って日本に戻ってくることも体力的にできないんです。父親の墓もバンコクにあります。母はタイに骨をうずめるつもりでいます。最後に私がそばにいるのがとても自然に感じたのです」

なぜ、第2の人生に「タイの焼き物」を選んだか

業界トップの野村證券で早くから執行役員になったのだから、野村は仕事ができる男だ。そして信用も人望もある。「辞める」と聞いた、ある野村證券OBの有名経営者は「私の後継者になってくれ」と言ってきた。誰もが知っている金融企業である。

だが、野村は誘いを断り、単身、タイへ行くことを決めた。野村證券時代に稼いだ最高年収は8000万円。今はその20分の1しかない。それでも、父親が始めた事業を受け継いだ老齢の母親がたったひとりで頑張っているのだから、それを見捨てるわけにはいかない。

会社員をやめてセカンドキャリアを始める場合、誰もが自分で自由に仕事を選ぶことができると思い込んでいる。しかし、実際に定年退職した人間のうち、好きなことをできる人はそれほど多くはないのではないか。野村のケースに見られるように、両親を介護したり、生活を共にしたりする時期にあたる。

セカンドキャリアで好きなことができるのは幸運な人たちなのである。セカンドキャリアの夢を描くのはいい。しかし、実際にはその時になってみなくてはわからない。人生はそれほど思う通りにいくものではない。