文学には文学で対抗する

紫式部が『源氏物語』を書きはじめた動機はわからない。最初は、夫を失った心の空虚を満たすためだったのかもしれない。しかし、大作を仕上げるに当たっては、まちがいなく道長が関与している。

源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』。土佐光起筆(画像=バーク・コレクション/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

倉本一宏氏は、当時の紙が非常に高価だったことに着目し、次のように記す。「紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長を措いては他にあるまい」

その道長の目的については、「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは、言うまでもなかろう」とする(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

宮廷の外で物語を書きはじめたと思われる紫式部は、おそらく寛弘2年(1005)の末から、彰子の宮廷に出仕した。『源氏物語』もその作者も、道長によって囲い込まれたことになる。倉本氏はこう書く。「紫式部の出仕が、『源氏物語』のはじめの数巻による文才を認められてのことであることは間違いない」(前掲書)。

道長がこれほどまで大騒ぎをするなら…

道長の策は功を奏したようだ。『紫式部日記』には、次のような記述がある。

「内裏の上の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、『この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』とのたまはせけるを(一条天皇が『源氏物語』を人にお読ませになられ、お聞きになられていたとき、『この作者は日本紀を読んでいるみたいで、じつに学識があるようだ』とおっしゃるのを聞いて)」

つまり、一条天皇は『源氏物語』を人に読ませ、聞いて、感想を述べていたのだ。作者が『日本紀』に通じていることをすぐに見抜くのは、むろん、一条天皇にも学識があったからである。そういう天皇を物語で釣るという道長の作戦は、一定程度、成功したということだろう。

その後、寛弘4年(1007)8月、道長は山岳修験道の聖地である金峯山(奈良県吉野町)に詣でた。願ったのが、彰子の懐妊と皇子の誕生であったことはいうまでもない。実際、入内から丸8年を経たこの年末、彰子は懐妊した。『栄花物語』はそれを、道長の願いが仏に届いたからだと書く。

その解釈は、当たらずとも遠からずといえよう。道長の金峯山詣ではあまりにも大がかりだったので、一行は都を留守にして大丈夫なのかと心配するほどだったという。最高権力者の道長がここまで必死である以上、一条天皇も放ってはおけなくなっただろう。

山本氏はこう書く。「道長がこれほど大騒ぎをしてまでも彰子の懐妊を求めるのなら、男でも女でもいいから、とりあえずは子を産ませなければなるまい。そう思った天皇は、おそらく明らかな意図をもって彰子に接し、その後は期待をもって見守っていたのである」(『道長ものがたり』)。