吉本興業の御曹司が亡くなった際、弱い立場の笠置を支えた
年の瀬に名古屋に地方興行に行った際には、元日だけは一人でお雑煮を祝うのも寂しいだろうということで「今日だけは僕がエイスケさんの身替りを勤めましょう(原文ママ)」と山内が言い、笠置が「えらい薹の立ったエイスケさんやな」と笑ったという記述もある。また、エイスケが亡くなったとき、吉本家からの見舞金を納めておいたほうが良いと勧め、「しかし今後、物質的援助は謝絶し、あくまで自立の覚悟で奮発すべきだ。ただ、お見舞金の封筒は吉本家との関係を証明するものだから大事にしまって置いた方がよい(原文ママ)」と進言したのも、山内だった。
笠置の自伝への寄稿「歌姫の構図(笠置シヅ子を語る)」の中で、演劇評論家・旗一兵は山内の存在についてこう記している。
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)
「歌手と庇護者」の関係だったが、昭和25年に関係が破綻
一緒に暮らしていた時期も含め、史実ではドラマ以上に近しい間柄であったことがわかる。しかし、笠置に「兄さんか叔父さんみたいな関係」と信頼されていた山内には、意外な“裏の顔”があった。
タナケンのモデル・エノケン(榎本健一)と「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った喜劇役者「ロッパ」こと古川ロッパ(古川緑波とも)は、笠置とも親しかったが、『古川ロッパ昭和日記』(1987年に晶文社より復刊)の「昭和二十五年五月十五日(月)」の日記中には、こんな記述が見られる。
古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記 戦後篇』(晶文社)