「弥助=侍」説の根拠は薄い

では実際のところ、「弥助は侍だった」「戦国時代の日本では黒人奴隷が流行していた」というロックリー氏の説は正しいのだろうか。

ロックリー准教授の学説の「問題」は、弥助が武士(侍)として扱われた証明となる「主君信長からの刀と屋敷の下賜」の記述が、後代のたったひとつの史料にしか見つかっていない点にある。

その史料とは、織田信長の一代記『信長公記』。信長の死後30余年を経て成立したいわゆる二次史料だが、信長と同時代に書かれた一次史料の史実と照らし合わせても誤りが少なく、価値の高い準一次史料として扱われることが多いという。

『信長公記』には江戸時代の写本がいくつか存在するが、そのひとつの「尊経閣文庫本」のみに、弥助への刀と屋敷の附与の記述があるという。

「完全否定」するのも難しい

国際日本文化研究センター(日文研)の呉座勇一助教はアゴラ(7月22日)にて、尊経閣文庫本の『信長公記』に「弥助が装飾刀と屋敷を与えられた」と書いてあることから、弥助が信長の家臣、すなわち武士(侍)として遇されていた可能性を否定していない。

ただ、それだけで弥助が武士であったと断定することもできないようだ。

原本が焼失している『信長公記』の写本の中で、尊経閣文庫本以外にこの記述がない、ということは、この個所が後世の創作である可能性を示唆するものだ。

一方、宣教師のロレンソ・メシヤが書き残した西洋側の一次史料に、「人々が言うには、(信長は)彼(弥助)を(知行を取り家臣を抱える身分の)殿にするであろうとのことである」という記述もあるという。

ただ、これはあくまで「噂話」であり、刀・屋敷・所領・名字・家来などの「物証」への言及がないため、証拠として弱いという説もある。

帯刀のほかに、「苗字」を名乗っていたかどうかも「侍の要件」の一つと考えられるが、弥助には苗字が与えられておらず、弥助は侍より下の武家奉公人ではなかったかという説もあるようだ。

前述の呉座氏も、一介の奉公人に刀と屋敷が与えられたとは考えがたいとし、「弥助=侍」説を完全否定はしないが、積極的に肯定もできない、という慎重な立場を取っている。

日本の歴史学者の間で、「弥助=侍」説を「定説」とするコンセンサスはないと見ていいだろう。

現状はこのような状況で、「弥助=侍」説には十分な証拠がそろっておらず、「史実」として扱うのは無理がありそうだ。

だが、“悪魔の証明”とも言われるが、ある事実が存在しないことを証明するのは難しく、「弥助=侍」説を完全否定することも難しいのが現状のようである。

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あくまで「噂話」(※写真はイメージです)