ところがその後、事件が起きる。中曽根康弘政権末期で、次期総裁が取りざたされていたさなかだ。竹下、宮澤喜一、安倍晋太郎の3人が争う中、右翼団体「日本皇民党」の街宣車が執拗に「金儲けの上手い竹下さんを総理にしましょう」と国会周辺で放送して回ったのである。いわば“ほめ殺し”で、角栄を裏切った竹下に対する嫌がらせだったのだが誹謗中傷には当たらず、警察も取り締まれない。そうこうしている間に、竹下はストレスで円形脱毛症になってしまったのだ。

何とかしなければならない、と金丸が暴力団との関係の強かった佐川急便の渡辺広康に仲介を依頼。さらに暴力団の稲川会・石井隆匡へ日本皇民党への働きかけを依頼し、竹下が田中邸へ直接謝罪に行くことをもって街宣を止めるとの話でまとまったという。

実際、竹下が田中邸に赴いたことで街宣は止んだのだが、竹下が総理になり、佐川急便の汚職事件が明らかになると、国会議員が暴力団に問題解決を依頼したことも発覚してしまったのである。佐川急便から多額の献金を受けていた金丸は失脚、自民党に対する風当たりが強くなったことで、宇野宗佑・海部俊樹・宮澤政権を経て自民党は下野することとなった。竹下は角栄を裏切り、総理にはなったが、自民党は大きな代償を払わされたことになる。

未遂に終わった「加藤の乱」

もう一つ、未遂に終わった裏切り劇も紹介したい。「加藤の乱」として知られる、2000年11月の森喜朗内閣不信任を巡る騒動だ。

森内閣はこの時点で支持率20%を切っており、かねて総理の座を狙っていた加藤紘一はここにとどめを刺すべく、やはりクーデターを画策した。民主党の菅直人と組んで、野党が提出する内閣不信任案に党内から賛成・欠席することで、可決に持ち込もうという政権転覆、その後の自身の総理就任を狙う構想を抱いていたのである。

ところが加藤は竹下派で参院のドンといわれていた青木幹雄にこの構想を話したうえ、「青木も了承している」と口外。当然、目論見は露見し、加藤への同調を口にしていた議員たちは切り崩されていく。加藤の乱の当時、党幹事長だった野中広務に直接話を聞いたが、もともと加藤を総理に押し上げたいと考えるほど、加藤と関係の深かった野中が、切り崩し工作の先頭に立たざるをえなかったことは、歴史の皮肉といえるだろう。

結局、加藤の同調者は不信任案が可決できる人数を割り、自民党内からの倒閣という裏切り行為は未遂に終わった。この時、それでも単独で議場へ向かい、賛成票を投じようとした加藤に縋り付き「あなたが大将なんだから、一人で突撃なんてだめですよ」と慰留したのが、加藤派の谷垣禎一だった。