裁判長になるべき女性が次々に家庭裁判所に異動させられた

ところが、私が家庭裁判所へ配置された後女性裁判官の先輩グループが次々と家庭裁判所へ配置されるようになった。よく考えてみると私を始めとして女性裁判官の先輩グループがそろそろ裁判長(部の総括者)に指名される時期になっていた。

地方裁判所では三人の裁判官の合議で裁判が行われることがあるが、家庭裁判所では原則として単独裁判であるから、女性が裁判長の席に坐り、両側に男性裁判官が坐るということはない。地方裁判所に配置されていれば裁判長になるべき女性裁判官達が次々と家庭裁判所に送り込まれてくる事実を見て、女性を裁判長にすることに男性裁判官の抵抗があるのであろうと思わざるを得なかった。その頃家庭裁判所に集められた女性裁判官達は折に触れ、この上は誰にも負けない家庭裁判所のベテラン裁判官になろうと励まし合ったものであった。

法律を守りそして正義公平を具現しようという高い理念を掲げる裁判の仕事は男の聖域であるという意識が、「男性社会」時代の裁判官にあったことは否定できない。その聖域に女性裁判官が侵入して来ることへの抵抗は、男女平等という憲法の理念だけで洗脳することは難しい。現実に女性が男性と共にその責任を果たして行く実績が必要であろうし、仲間意識をもつに至る信頼関係の発生がなければこれを除去することはできない。しかし、時の推移と共に戦後の男女共学の途を経て裁判官となった人達が増加してくれば、男性社会の聖域という意識をもつ人達は次第に減少してくるであろう。時間の問題というのはそういう点からもいえる。

写真提供=共同通信社
横浜家庭裁判所所長を近く定年退官する三淵嘉子氏、1979年11月9日

三淵嘉子の3年後輩の裁判官、永石泰子が語った「珍獣扱い」

永石泰子(元裁判官、弁護士)
1943年(昭和18)明治大学女子部法科卒業。戦後、中央大学法学部に進み1949年(同24)同学部卒業
1951年(同26)裁判官に任官
1976(同51)退官。弁護士登録。明治大学法学部講師。

それほど堅い志を立てたわけでも、また深い動機があったわけでもなかったが、法曹としての巣立ちに私は裁判官の道を選んだ。当時はまだ戦後数年しかたっていなかったので、女性裁判官は全部で5名[編集部注:和田(三淵)嘉子を含む]。最高裁判所で辞令を頂戴し、心細げに西の方へと赴任したのである。とに角珍らしいものがきた、とばかり女の裁判官というだけでよく新聞に出された。性、派手ならず、どちらかといえば引っ込み思案の身にとっては、有難くもなかった。