82人が当選したが

『新・国富論』も『平成維新』も100万部以上売れて、大前研一の名前も企業社会以外の層に少しは広まった。しかし結果的には日本は何も変わらなかった。

執筆活動だけでは限界がある。日本を変えるためにはもっと政治に直接働きかけるような活動をしなければならない、と思うようになった。

政治家になるつもりはなかった。政治家に向いていないことは、自分自身が一番よくわかっている。マッキンゼーでクライアントにアドバイスする仕事を23年やってきた。マッキンゼーではコンサルタントがクライアントのCEOになるのは筋が悪いとされていた。

だから自分は政策提言に徹することにした。受益者、生活者サイドに立った「政策提言型の市民集団」を組織し、党派に関係なく、我々の政策を実現してくれる政治家を後押ししていこうと決めたのだ。

それが1992年に設立した「平成維新の会」である。立ち上げの全国大会にはのちに首相となる菅直人氏(当時は社会民主連合)も応援に駆け付けて大演説をぶってくれた。

いろいろな方から応援していただいて、月1、2回の勉強会(政策ミーティング)には稲盛和夫(当時京セラ会長)さんや藤田田(当時、日本マクドナルド社長)さん、船橋洋一(当時、朝日新聞編集委員)さん、女優の岸恵子さんなどもいらしていた。

一番熱心だったのは稲盛さんで、「早く政党になれ」「政治家にならなければダメだ」とよく言われたものだ。しかし当時、「改革派」と呼ばれていた与野党の政治家の熱意と能力と意思を私は信用していた。政治家が歪むのは政策がないからだと考えていたから、平成維新の会で理念と政策を示して、改革派陣の応援に回ろうと思っていたのだ。

38年ぶりの非自民政権である細川(護煕)内閣が誕生した1993年7月の総選挙では、平成維新の会は108人の候補者を推薦した。

推薦にあたって立候補者たちには「(当選したら)平成維新の会が立案した83の法案を実現させる」という誓約書を書いてもらった。

83法案については、同年11月に出版した『新・大前研一レポート(講談社)』に詳しい。

短い選挙期間中に108人の応援をするために、自分でヘリコプターをチャーターして全国を回った。政党の党首並みに強行軍で心身をすり減らした。

結果、82人が当選し、盛大な祝勝会を行った。この82人に新しい同志数人を加えて月一回の勉強会をするようになった。

政策を研究し、議員立法によって日本を変えていく。私が呼びかけた「平成維新」が実現するかに思えた。

ところが細川連立政権から羽田政権と続くうちに、与党の国会議員は政権のうま味を覚えたのか保守化してしまった。

「党の事情が優先しますから、大前さん、その辺りは理解してください」

「選挙のときに支援はしてくれたけど、お金はいただかなかった」

「私を支持してくれたけど、同じ選挙区でこの人も支持したじゃないか」

支援した議員の3分の2ぐらいはそうやって離れていった。残った議員で勉強会を続けたが、その後の政党の離散集合で誰がどこの党にいるのかわからないような状況になり、国会議員を後方支援する、という「平成維新」の運動は機能停止に陥った。

83の法案も国会に提出されたのは2つだけだった。ドラマチックな法案内容だから、まず政党が議員立法を認めてくれないのである。議員立法を衆議院議長に届け出ても、党の承認を受けなければ受け付けてもらえない。

かろうじて議員立法に持ち込んだ2つの法案も廃案に終わった。

私は完全に頭にきて、もう自分でやるしかないと決意した。

(次回は《元祖「平成維新」-4- 》。2月4日更新予定)

(小川 剛=インタビュー・構成)