プラス思考が生む厄災

「プラス」でも「マイナス」でもない「ゼロ」の思考。

「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもない「ニュートラル」な在り方。

「前向き」でも「後ろ向き」でもなく、そこに「とどまる」こと。

私は時々、と言うよりは定期的に、それが必要だと思う。

「プラス思考」で「ポジティブ」で「前向き」な人は、そうである限り、そうさせている「ものさし」の正しさを疑わない。そして、その道具がいつでもどこでも通用すると信じがちである。そこが危ない。

この世の信じがたい厄災は、これら「プラス」関係の行動から出る。「反省」に乏しいから微調整も効かず、一度方向がズレると、取り返しがつかないところまで行くことになる(某大統領の蛮行を見よ)。

撮影=新潮社

「ゼロ思考」は「思考ゼロ」、つまり考えないことではない。

損得でものを見ないこと、自分の「見たいもの」を見ようとしないこと、そのものを「見る」のではなく、そのものが「見える」ようにすること、である。

その先を行けば、禅門で言う「非思量ひしりょう」(物事を自分への問いかけと受け止めて、安易に答えを出さず、そこにとどまること)の境地があるだろう。この「非」が「不」でないところが肝心なのである。

休息で見える現在地

「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもなく「ニュートラル」であるには、要するに「いい加減」にしておけばよいのだ。手を抜けと言っているのではない。「火加減」「水加減」が難しいように、「加減」には注意深さと手間が要る。

南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)

結論を急がず、「様子を見る」「時機を待つ」ことも立派な「加減」の策である。そして、「反省」は「加減を見る」には欠かせない手間なのだ。

「前向き」も「後ろ向き」も通用しない時は、止まる以外にない。止まらない限りは見えない風景がある。それは足元であり、現在地である。行先を選ぶには止まるしかない。何のために儲けるのかを考えるには、儲けることを一度止めるべきである。そうしない限り、儲ける意味はわからない。

金自体に意味がない以上(メモにも使えぬ紙を貯め込んでどうするのだ。今や液晶の数字か)、止まる習慣が無ければ、道を間違えることは必定であろう。

「ゼロ思考」「ニュートラル」「止まる」を全部まとめて実践すれば、「休む」、ということになる。

わが道元禅師は「万事を休息す」と教えた。万事である。これは難しい。それには休む覚悟とテクニックが不可欠だ。

そのテクニックが「坐禅」だと、禅師にならって持ち出したら、あざとい「プラス思考」になってしまうかな。

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