幼い畠山家当主が病死し、謙信はついに七尾城を制する

落城間近の9月15日──。

長一族の記録『長氏家譜』によると、ここで遊佐盛光がほかの重臣たち上杉家への降伏を説いた。すると長綱連は「不義である」と聞く耳を持たなかった。

同調する者も多かったらしく、降伏論を唱えた盛光は萎縮して、反省の姿勢を取り始めた。

盛光は早速にも詫び状を書き、和解のため、綱連の父・続連を屋敷に招く。続連も「息子が言いすぎました」というつもりで、出向いたのだろう。

事件は対面の場で起きた。

盛光の手勢が「お前の息子のせいで恥をかかされたのだ」とばかりに続連を囲み、降伏派となるよう迫ったのだ。ところが続連はこれを拒んで自害した。

こんな事件が、よりにもよって上杉軍の包囲中に起きたのだ。

能登を制し勢いに乗る謙信が信長軍に圧勝した「手取川の戦い」

謙信の軍勢は混乱に乗じ、その日のうちに引き連れていた馬廻および越中手飼てがいでもって七尾城を制圧した。

長氏残党は盛光らに族滅された。綱連、享年38。

盛光に迎え入れられた謙信は「萌黄もえぎ鈍子どんすの胴肩衣を著し、頭を白布をもってかつらつつみ」の姿で馬上から盛光を見下ろし、「今度の忠節、神妙なり」と声高に告げて、恩賞の沙汰を下したという。

能登を制圧した謙信は、織田軍が加賀を北上しているとの確報を得て、越後先手衆と一向一揆の連合軍を派遣する。

歌川芳藤作「織田信長公清洲城修繕御覧之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

柴田勝家が率いる織田軍は手取川を越えたところで、意気軒昂な上杉軍に肉薄され、恐怖のあまり越えたばかりの川に飛び込んで、南岸に撤退した。上杉軍は織田軍1000人以上を討ち取り、残る者たち多数が手取川に流されて溺死した。

上杉軍の圧勝だった。

翌朝、謙信が現地に到着。これからの決戦をどうするか思案のしどころであったが、なんと織田軍は継戦を諦めて撤退を開始した。その中には戦上手なはずの羽柴秀吉もいた。しかも謙信を倒すつもりで出馬を予定していた信長は、畿内情勢が慌ただしく、北陸に出る余裕を見つけられなかった(乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』PHP新書、2023)。

勝ちすぎた謙信は、信長を討ち取れなかったのだ。

翌年(1578)3月、謙信は関東への大遠征計画を立てる。関東を攻めたあと、返す刀で信長を滅ぼす計画を立てていたが、謙信は強い腹痛に倒れ、3月13日に帰らぬ人となってしまった。