「第一次七尾攻め」は失敗、翌年に「第二次七尾攻め」を決行

翌天正5年(1577)3月までに能登平定を果たせなかった謙信は、石動いすらぎ山城の普請と守備を命じて、一旦越後に帰国することにした。

謙信が第一次七尾城攻めを終えて帰国すると、能登畠山家の重臣・長続連の嫡男・綱連は、七尾北西の熊木・富木とぎの要害を攻め落とし、さらには穴水城を囲むなど、勢力回復に動き回った。

能登南方は別の重臣が奪還を進めたようだ。そこへ謙信が再び攻めてくると、綱連は穴水あなみず城の囲みを解いて、七尾城に戻って籠城準備に入った。

七尾城はその名の通り七つの大きな尾根(龍尾・虎尾・松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾)を結ぶ形で曲輪くるわが連なる連郭式城郭で、山頂には立派な主郭が防備を固めている。

北の城下には守護名族の格式に相応しく、「千門万戸」の街並みが広がり、市街は短時間で制圧されないよう断崖と柵で守られていた。

相当な備えようだが、実のところふもとから複数伸びる登り口のひとつに主郭への大手道入口がある。

攻め手にすれば、ここを使えば一本道であるから、進路に迷うことはない。逆に言えば守る側もそこを重点的に防衛していれば手堅いわけである。

まるで映画『七人の侍』の防衛体制のようだ。謙信の先手がここを攻めるなら、飛んで火に入る夏の虫となる。

もし上杉軍が複数の番所を越えて、主郭部最大規模の三ノ丸まで辿り着いたら、そこでやっと山頂となる。

石川県七尾市の七尾城址(写真=tom-spring/PD-self/Wikimedia Commons

天然の要塞のような七尾城は、戦上手の謙信でも攻めあぐねた

その先は二ノ丸と温井屋敷が進路を阻む。その先に本丸があるが、ここから少し東に離れたところに長屋敷がある。

佐伯哲也氏の調査では、厳冬季は2メートルの積雪と日本海からの強風に晒されるため、平常はここに居住しなかったと考えられている。

城攻めをするにあたり、ここが一番の難所となるであろう。

遊佐屋敷の先には大手門、そして西ノ丸屋敷と遊佐屋敷が隣接して、本丸への道筋を塞いでいる。

完全要塞の様相を呈する七尾城だが、やはり問題は守護不在の不安定さにあった。

守護重臣の長続連・綱連父子が率先して指導力を発揮していたところに、謙信が侵攻した。天正6(1578)年閏7月、第二次七尾城攻めがここに始まる。

二度目の籠城戦が続く中、城内で感染症が流行し、幼い春王丸も病で命を落とした。『石川県史』は「畠山氏の血族断絶したる後、事実上七尾の城主は長綱連なり」と評する。もはや、次期傀儡となる当主すら不在と化してしまったのである。