武田信玄が信濃を攻め続けた理由

武田信玄もまた、10年もかけて信濃国を制圧したものの、甲府から本拠地を動かすことはありませんでした。北信濃に上杉の脅威が迫っているのだとすれば、その対応を迅速に行うためにも、もっと北に本拠地を置いてもよいところです。しかし、武田信玄は甲府を本拠地とし、海津城がなんとか食い止めている間に甲府から兵を出すという選択をしています。

これもあくまでも信濃へ領土拡大をしたのは、本拠地である甲斐国を守るため、と言えそうです。それほどに戦国大名にとって本拠地というものは重要だったのです。

しかし、武田信玄は、ただ単に緩衝地帯として信濃国全域を必要としたと言ってよいのでしょうか。10年もかけてそれを実行する必要があったのか、疑問は残ります。おそらく、武田信玄には別の意図があったのではないでしょうか。

それでは武田信玄はなぜ、信濃国を制圧することにそこまでこだわったのでしょうか。思い出していただきたいのは、武田信玄の本拠地である甲斐国は海に接していない内陸の土地だったという点です。だからこそ、武田信玄は何としても、海を手に入れたいと思ったのではないでしょうか。欲しかったのは、海運を使った貿易によって得られる利益です。

「敵に塩を送る」が意味すること

そのためには当然、海運の重要な拠点となる港が必要になります。信濃国の先には、上杉謙信の越後国があるわけですが、謙信は直江津を中心とした海上交易によって莫大な利益を得ていました。それゆえ、謙信にとって直江津は最も重要な拠点だったのです。

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春日山城跡から直江津方面を望む。

北信濃まで手に入れれば、直江津は目と鼻の先です。これに武田信玄は目につけたのではないでしょうか。

上杉謙信と武田信玄の間では、「敵に塩を送る」ということわざの語源となった「塩絶ち」の物語が有名です。これは、今川氏や北条氏による塩留めによって、内陸国だった甲斐国が塩不足に陥り、そのため、宿敵である武田信玄に塩を送り届けたとして、上杉謙信の「義の人」のイメージを印象付けた逸話です。

これは、江戸時代に創作された物語だとされていますが、一定の真実を反映しています。甲斐国も信濃国も海がないため塩が取れないわけで、結局、他国との交易で得るほかなく、自活ができないという問題があったのです。だからこそ、武田信玄は、海を目指したのではないか。そのための信濃国制圧だったのではないでしょうか。