1950年、7歳の息子を弟に預け、半年間のアメリカ視察へ
嘉子が裁判官になった翌年。昭和25年(1950年)の五月である。彼女はアメリカへ行くチャンスを得た。家庭裁判所がアメリカでどう運用されているかを、見るためである。約6カ月間、彼女は日本を離れた。一人息子の芳武は、当時いっしょに住んでいた、弟の輝彦の家庭に任せた。芳武は7歳。小学2年生だった。輝彦は、筆者に言った。
彼は頭の回転は早いです。しかも、わくにはまりません。自分の思うとおりに行動しました。小学校の授業中に、一人で虫取りに行ったりするのです。私の妻も彼にはだいぶ、手をやきました」
芳武は、筆者にこう語った。
ぼくは音痴でした。小学校でもまともに歌えませんでした。おばさんはオルガンを弾いて、ぼくに歌の練習をさせてくれました。
しかし、おばさんがいても、母がアメリカに行っている間はさびしかったです。授業はほとんどさぼって、遊び回っていました」
ひとり息子が忘れられない「母・嘉子が激怒した」エピソード
芳武は当時、最も忘れられない思い出を筆者にこう語った。
「ぼくは小学校に着て行ったレインコートを、なくしたことがあります。昭和25年頃ですから、まだ物がない時代でした。母は貴重な物がなくなって、よほど悔しかったのでしょうね。ものすごく怒りました。
ぼくに『どこに忘れたの。言いなさい!』と、大変なけんまくで怒鳴ります。ぼくは、わざと置いてきたわけではありません。どこに忘れたか、さっぱり分からないわけです。しかし、何か言わないと許してもらえません。ぼくは適当な所を答えました。
すると、あとで小田急線の電車に忘れていたことが分かりました。営業所からレインコートが戻ってきたのです。ぼくは別の所に置いてきたと言っていたので、母はぼくを『うそつき』と、なじりました。ぼくは、心外でした。覚えていないものを強引に白状させられたのですから。とにかく、母は気性が激しかったです」