女性の裁判官第2号となり、どんな事件でも担当すると決意

日本の女性裁判官の第1号は、石渡満子である。石渡は戦後、司法科試験にパス。そして、昭和24年(1949年)の4月に裁判官になった。

和田嘉子も4カ月遅れて、同じ年の8月に裁判官になる。彼女が裁判官を志して、2年がたっていた。東京地方裁判所の民事部に配属された。

和田嘉子(のちの三淵嘉子)や石渡満子らが女性初の判検事を目指していることを報じる新聞
画像=1949年1月27日付朝日新聞より、和田嘉子(のちの三淵嘉子)や石渡満子らが女性初の判検事を目指していることを報じている

嘉子は後に、女性の裁判官についてこう書いている。

「地方の裁判所の中には女性裁判官を敬遠するところが多く、ことに小人数の(中(中略)裁判所は、女性裁判官は十分に活用できないとして歓迎しなかったようである。はじめて女性裁判官を受け入れる側には、女性に対するいたわりからか、たとえばやくざの殺人事件や強姦事件等を女性裁判官に担当させることははばかられるという気分があって、女性裁判官は男性裁判官と同じようには扱えないと思うようであった。

従来の女性観からいえば無理のないことかもしれない。しかし、どんなに残酷な殺しの場面でも、またしゅう恥心を覚えるようなセックスの光景でも、一旦職務となれば感情を乗り越えて事実を把握しなければ一人前の裁判官ではない。女性裁判官は当然のことと考えていたにもかかわらず、周囲がうろたえていたように思う。女性が職場において十分に活躍できない原因の一つに男性側の女性への優しいいたわりから来る特別扱いがある。裁判官のみならず検察官、弁護士の場合でも、女性に対しては初期の頃は男性側が必要以上にいたわりの心遣いをし、それが女性法曹を扱い難いと思わせていたのではなかろうか。

職場における女性に対しては女であることに甘えるなといいたいし、また男性に対しては職場において女性を甘えさせてくれるなといいたい。私が東京地方裁判所に裁判官として配置されたとき裁判長がはじめていわれたことは『あなたが女であるからといって特別扱いはしませんよ』という言であった。その裁判長は私の裁判官生活を通じて最も尊敬した裁判官であった」(三淵嘉子『女性法律家』)