夫を亡くした悲しみを抱き続けたが、弱音は吐かなかった
彼女の同僚であった倉田卓次は、こう書いている。倉田は、後に東京高等裁判所の判事になった。現在は公証人である(2011年1月30日逝去)。
「(三淵さんの)お宅に裁判長ともども招かれたことがある。農家の離れふうの建物を借りておられたようだ。とりの水炊きをよばれながら、初めて身の上話を聞かされた。(中略)
(ご主人が)せっかく復員したのに疎開先へ十分な連絡がなく、面会できぬまま、病院で戦病死……といった話だったと記憶する。疎開先は蚤が多かった……『わたしはそんな大事な時なにも知らずに大騒ぎで蚤をとっていたのよ』。いつも明るい微笑みを浮かべている頰が、その時だけは、涙に濡れた。判事室では決して見せなかった『妻』としての一面だった」(同書)
(ご主人が)せっかく復員したのに疎開先へ十分な連絡がなく、面会できぬまま、病院で戦病死……といった話だったと記憶する。疎開先は蚤が多かった……『わたしはそんな大事な時なにも知らずに大騒ぎで蚤をとっていたのよ』。いつも明るい微笑みを浮かべている頰が、その時だけは、涙に濡れた。判事室では決して見せなかった『妻』としての一面だった」(同書)
筆者「ご主人を亡くされた悲しみを、日常、お母様から感じられましたか」
芳武「いいえ、全く。子供にさびしいなんて、言いませんよ。仕事を持った女性ですから。戦って生きています。弱音は吐きません」