みんなに恨まれた、でも公平な仕事ぶりが評価された

その後は、選挙にしても、党の仕事にしても必死でやり続けました。1982年に発足した中曽根内閣で、自民党の総務局長になりました。選挙実務を取り仕切る重要な仕事に就かせてもらったわけですが、まだ当選5回、40歳の私には大変なことも多かった。

翌83年の参院選挙から実施された比例代表選挙の調整は大変だった。議員それぞれに順位をつけなきゃいけなかったから、みんなに恨まれたよ。でも絶対に不公平にはしなかった。田中派だから優遇したりはしない。そういった点は各派から評価してもらえた。

年末の総選挙は、ロッキード事件の一審判決でオヤジに有罪判決が出た後だったから、自民党にとってはとても厳しい選挙でした。僕はその選挙で、2~3時間ほど落選したんですよ。民放が別の候補者に当選確実を打っちゃった。最終的には2000票差で当選することができましたが(笑)。

撮影=遠藤素子
当選回数を重ね、政府や党本部の仕事も任されるようになったと振り返る。

それまではずっとトップ当選だったから「今回の選挙も大丈夫だろう」と思って、地元に戻らず東京で選挙実務をやっていた。でもその時は違っていた。

地元にいた女房が「雰囲気がおかしい、とにかく帰ってきてくれ、絶対帰ってきてくれ」と言うので、選挙戦の最終日にだけ地元に帰ったんです。やっぱり選挙というのは油断大敵。有権者の気持ちを疎かにしてはいけないと痛感しました。これを機にさらに真剣に選挙区を回るようになりました。

「人を信用しすぎる、だから何度もだまされる」

僕には、人を信用しすぎるところがある。ロッキード選挙をめぐって、田中のオヤジが中曽根(康弘元首相)に裏切られたのを見て、自分も気をつけねばならないと痛切に思いました。

1982年に田中角栄の支援で成立した中曽根康弘内閣は、田中の強い影響力のもと、「田中曽根内閣」とか「角影内閣」などと揶揄されていた。翌83年春にはその秋にロッキード裁判の一審判決が予想される中、判決の前に衆院の解散・総選挙を断行すべきだと迫る田中に対して、中曽根は「角栄のいいなり」との批判を恐れて、解散を拒否し続けた。小沢は田中側近として2人の実力者の暗闘を間近で見ていたのである。

中曽根の裏切りはオヤジにとってショックだったと思います。その時(田中判決前に)選挙をするのが良かったのかどうかは別ですが、オヤジが「ここで解散すべきだ」と言っても中曽根はもうオヤジを切ろうと思っていたから、応じなかった。僕はオヤジが中曽根に直接電話したのも知っていたが、それでも拒否した。

撮影=遠藤素子
田中角栄元首相の側近として、中曽根首相(当時)のやり取りを目の当たりにした。