令和の「記号化」と「タブー化」
「令和」が、どのように選ばれたのか。その過程は興味深いし、元号を専門とする私には参考になる、ありがたいニュースだった。安倍氏が国書にこだわり、そして、その意向が伝統=中国古典由来を変えた。元号とは何か、どんな存在なのかを考える上で興味深い。
ただ、ここで考えたいのは、元号そのものについてではない。このニュースに象徴されている、「令和」にまつわる2つの傾向である。ひとつは「令和」(元号)の記号化であり、もうひとつは「令和」のタブー化である。
記号化とは、令和=いま・新しい、昭和=昔・古い、として、新旧を示すシンプルな目印になっている状況である。タブー化とは、令和という元号を天皇と同一視するあまり、非難はおろか、批判や意見すら許されなくなりつつある現状である。
話題になったドラマ「不適切にもほどがある!」を思い起こそう。主人公が行ったり来たりするのは、「昭和」と「令和」である。「昭和」は、古臭く旧態依然でありながらも活気のあった時代として、「令和」は、アップデートされたゆえに息苦しさもある現在として、わかりやすく対比された。
人気ドラマで描かれた「昭和」と「令和」
最終回(第10話)の終盤で、「完全な平等なんてない 令和と昭和 男と女 容姿 性格 納税額 違う ちょっとのズレなら ぐっとコラえて 寛容になりましょう 大目に見ましょう」と歌われる。
ドラマでは38年もの隔たりがあるのに「ちょっとのズレ」しかない。「寛容にな」れば「大目に見」られるくらいの違いに過ぎない。「昭和」は古さを、「令和」は新しさの代名詞にとどまり、どちらも時代としての特徴を示してはいない。もちろん、元号に結びつくはずの天皇は出てこない。
なぜ、元号と天皇がつながるのか。それは、明治への改元とともに、一世一元=ひとりの天皇にひとつの元号を決めたからであり、1979年に元号法として定めたからである。さらに、元号=天皇、であるばかりか、それは、時代のイメージにもつながるのだと、これまで言われてきた。
しかし、そうした図式は、もはや成り立たない。
「不適切にもほどがある!」に見られるように、あるいは、「あの人は昭和だから」とか「まだ昭和を引きずっている」といった揶揄にあらわれているように、「昭和」は「昔」しか意味しないのではないか。