近衛家を軽んじたことも、信長殺害の理由になった⁉

武田征伐の後、信長は家康の案内で甲府から駿河へ下る富士遊覧の旅に出ています。前久は同行すべきかどうかを信長に尋ねました。

すると信長は前久をけんもほろろに追い払ったのです。

武田家や快川和尚への仕打ちに加え、この信長の冷淡さが、前久の心に宿ったものを燃え上がらせたのではないでしょうか。

もう一つ、前久が信長との縁を断ち切ろうと考えたであろう一件があります。当時関白を務める一条内基という公家がいました。前久とはライバルの関係にあります。

この一条内基に、信長は養女を娶らせているのです。

「こんなにも信長のために尽くしてきたのに、よりによって一条と縁組するとは」

前久にとっては、信長の裏切りであり、同時に自分が「見限られた」と感じたことでしょう。

信長にとっては、「太上天皇になる」ことに反対している前久への当てつけであり、「前久がだめなら一条で」という保険だったかもしれません。

前久にとっては、「もはやこれまで」でした。

そして光秀も計画に組み込み、信長を京におびき寄せる

木曽路を通って京に戻った前久は、各方面と連絡を取り、「信長謀殺計画」を練り始めました。

まずは足利義輝の近臣だった細川藤孝(幽斎)を身方に引き入れ、足利義昭を京都に呼び戻し、幕府を再興する計画を立てます。

同じく義輝の近臣だった明智光秀も、藤孝とともに前久側につきました。

二人は義昭を将軍にするために奔走した仲であり、また光秀の娘玉子(ガラシャ)は藤孝の嫡男忠興に嫁いでいます。

単なる幕府の旧臣同士というだけではない、強い絆で結ばれていたのです。

右田年英作「英雄三十六歌撰 明智光秀」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

一方信長は、「武田征伐」の功績を盾にとって、朝廷に対して、太政大臣、関白、将軍のいずれかに任じるように強要していました。

その要望を朝廷が受け入れ、天正10年(1582)5月4日、安土城に勅使を遣わし、誠仁親王の書状を届けたのです。

信長が望めば、三職のうちいずれの職にもつける、という書状です。

誠仁親王は、信長謀殺計画を知っていたと考えられます。そして、書き添えられた一言「すべては、上洛されたときに」。これは、信長を洛中におびき寄せるための罠としか思えません。