ナチスドイツに先んじて原爆を造ろうとしたアメリカ

映画の前半では、原爆開発の様子の描写に力が入れられている。ここでしばしば言及されるのは、ヨーロッパにいる科学者たちの動向だ。つまり、その背後にいる競争相手国の存在に、常に意識が向いている。

後半では、オッペンハイマーに対する安全保障絡みの聴聞会でのやり取りが前面に出る。特にこの部分は、国内政治のつばぜり合いの様相が強く、日本の観客が肩すかしを食らう点の1つだろう。ユダヤ系ドイツ移民の子であるオッペンハイマーは、ソ連のスパイなのか、スパイではないのか。これが重大問題となるのは、冷戦下の軍拡競争の文脈で、原爆をとらえることが当然視されているからだ。

アインシュタイン(左)とオッペンハイマー(右)、1950年ごろ(写真=アメリカ国防総省/PD US Military/Wikimedia Commons

広島・長崎への非人道的な爆撃はとってつけたように描かれる

つまり、オッペンハイマーという人間を舞台回しにして、原爆を開発し、核兵器を保有することに至ったアメリカ政治のその後を描くことに、この映画の主眼はある。では広島・長崎はというと、とってつけたように言及されるだけだ。オッペンハイマーの失脚を画策した原子力委員会のルイス・ストローズ委員長が突然、広島・長崎の人々に対するオッペンハイマーの罪悪感の欠如をなじるシーンが挿入される、といった具合だ。このように広島・長崎は、アメリカの国内政治における攻撃材料の1つに矮小化されている。

『オッペンハイマー』が示すこうしたかなり限定的な世界観は、その時代の人間だったオッペンハイマーを追っている以上、ある意味当然でもある。そして、マンハッタン計画を主導した彼の世界観が、トルーマン声明にみられるようなアメリカ政府の公式の考えと重なりあうのも、不思議ではない。

問題は、そうした時代的な制約がなく、もっと広い視野から世界観を育むことができるはずの、2024年に生きる私たちが(アメリカでこの映画が大ヒットした2023年と言ってもいいが)、なぜこんな先祖返りしたような原爆観を表した映画を観ているのか、という点だ。