原爆被害者のイメージがたった1回だけ出てくる問題のシーン

広島での原爆使用が「成功」した後、オッペンハイマーが、ロスアラモスで共に原爆開発に携わった人たちを前にスピーチをするシーンがある。ここで彼は突然、熱狂的に喝采する彼らの頭上で原爆が炸裂したかのような幻影を見る。女性の顔が崩れ落ち、黒焦げの死体が映し出される。

このシーンを見て、広島の原爆被害を想像し、それに対する罪悪感を表現したものだと思う人もいるかもしれない。だがここで表出されているのはむしろ、今後自分たちがターゲットになるかもしれない、という恐怖心の方だ。実際このシーンで描かれるのは、スピーチ会場にいた白人男女の集団が、一瞬にして消えてしまう悪夢のような光景だ。オッペンハイマーは文字通り、彼ら自身が被爆者になったところを想像している。

もっと一般的に、原爆被害の悲惨さを表現したシーンだ、とみなすこともできないわけではない。けれども、それはあくまで白人男女の肉体を通して想像される、ということだ。

広島に投下された原爆のキノコ雲
広島に投下された原爆のキノコ雲。下に見えるのは広島市街。エノラ・ゲイ乗員のジョージ・R・キャロン軍曹撮影。1945年8月6日(写真=アメリカ合衆国連邦政府/PD US Army/Wikimedia Commons

なぜ爆撃されていない白人の姿を通して被爆を描いたのか?

『オッペンハイマー』では、広島・長崎の被爆者だけでなく、原爆開発チームに含まれていたはずのアジア人らの姿も消されている、との批判がある。また核開発・製造の途上で汚染されたアメリカ国内の諸地域の住民(非白人が大半とされる)や、アメリカが核実験をした南太平洋のマーシャル諸島の住民たちの存在も、全く眼中にない。

実際には被害に遭っていない白人男女の肉体を通じて、現実に被害に遭った多くの非白人の存在が包含されるなら、極めておかしな転倒というしかない。これに疑問を持たないことが、私にはよくわからない。

核の恐ろしさが、白人の姿を通じて可視化されるのがデフォルトだとするなら、それはかなり危険なことだ。『オッペンハイマー』がしてみせたように、非白人の被害は、核超大国のアメリカでしっかり可視化されず、問題化もされないということになり、実際そうした状況が約80年後の今も続いているからだ。

それが今後、先行きが不透明な世界情勢の中で、特に非白人に対する核兵器使用のハードルを低くしてしまう恐れはないのだろうか。