2016年、オバマ大統領の広島訪問でアメリカは進歩したのか?

8年前の2016年、当時のバラク・オバマ大統領が広島を訪問した時、日本では多くの人がアメリカ社会の原爆観は大きく前進した、と肯定的にとらえた。たとえ言葉上のことであったとしても、オバマはスピーチで、「人間社会に同等の進歩がないまま技術が進歩すれば、私たちは破滅する」「原子の分裂を可能にした科学の革命には、倫理的な革命も必要」という考えをはっきりと示した。

また「いかなる命も貴重だという主張。私たちは、人類というひとつの家族の一員であるという基本的で必要な概念。これこそ私たちが皆、語らなければならない物語」と、人種差別のない社会の実現を、暗に訴えた。

The Obama White House「President Obama Participates in a Wreath Laying Ceremony in Hiroshima, Japan」2016年5月27日

オバマの言葉は今聞くと、まるで百年前のできごとのように感じられる。少なくとも『オッペンハイマー』は、一気に約80年前の、原爆使用時の原爆観に立ち戻っている。それを現在地から見直してどう位置づけるのか、という考察も視点も欠けている。コロナ禍でアジア系の人々に対するヘイトクライムが多発し、アメリカ社会の人種間の軋轢あつれきが可視化された後に公開された映画だとも思えない。

白人中心主義的な論理で原爆を肯定するわけにはいかない

こうしたことを議論する時、日本はもともと一方的な被害者ではなく、まずは自らの侵略行為を真摯に振り返るべきだという指摘が、よくなされる。全くその通りなのだが、もしそれが理由でアメリカの原爆観の批判を控えるような結果になったとしたら、それはむしろ、彼らの無責任で白人中心主義的な原爆観を是認することになってしまいかねない。

大事なのは、広島・長崎で現実に使われた2発の原爆により殺され、原爆症などで苦しみ続けた多くの人たちは人間であり、このような非人道的な武器の使用は、人類に対する冒涜ぼうとくだということだ。この当然のことを再確認しておきたい。その意味で、日本にいる私たちは批判を続けていく必要がある。

トルーマン声明が出た当時と比べ、『オッペンハイマー』で変わったことがあるとすれば、そのトーンの違いにある。同じような枠組みで作られ、同じような事柄しか見ないとしても、この映画の中には勝利感の喪失と、その結果としての混迷感が漂っている。