政党と軍部が連携した挙国一致内閣を求めた政友会久原派

基本的事実として、岡本の五月雨さみだれ演説が政友会内部からの造反行為であった以上、帝人事件の背景として政界との関連性は除外できない。もともと武藤ら『時事新報』が支持していたのは、政友会元幹事長の久原を中心とする親軍的な大同団結運動であり、政民両党主流派による政策協定中心の政民連携運動には批判的な論調をとっていた(松浦正孝『財界の政治経済史』)。

この時期、久原房之助くはらふさのすけは、政党と軍部が連携した強力な挙国一致内閣樹立を求めていた。政友会久原派は党内で第3位の勢力にあったが、1934年4月以降、政民連携運動から離れていく(佐々木隆「挙国一致内閣期の政党」)。久原にすれば、総裁派主導で政民連携運動が進展し、鈴木内閣が成立することは決して望ましいことではなかったからである。

検察当局による帝人事件捜査は東京地方裁判所検事正・宮城長五郎宛の三つの告発状をもとに開始される。告発人の一人である中井松五郎には武藤山治の妻と親しい内妻がいた(大島太郎「帝人事件」)。のちの公判で、中井は自分自身に法律知識がまったくなく、大沼末吉弁護士に相談のうえで告発状を作成したことを認めている。

検察に出された告発状は、久原派が仕組んだものか

大沼は政友会久原派の代議士だった津雲国利つくもくにとし(1934年2月16日、党紀紊乱びんらんにより除名処分)と非常に懇意であった。帝人事件前後に行われた鈴木喜三郎や望月圭介への告発、それ以前の小泉策太郎に対する鉄道横領疑惑の告発はすべて大沼によるものであった(菅谷幸浩『昭和戦前期の政治と国家像』)。以上のことから、帝人事件の背後には久原派による政民連携運動への妨害工作が見え隠れする。

判決が出る前に検察が控訴する見込みを報じた『東京朝日新聞』1937年12月22日付

この年2月以降、鈴木ら政友会執行部は民政党との間で、運動目的を政策協定に限定した政民連携交渉に着手する。その狙いは久原派と床次派の抑え込みにあり、5月11日の両党政策協定委員会第1回会合までに総裁派が主導権を掌握するに至る(前掲『昭和戦前期立憲政友会の研究』)。同委員会は6月29日に第2回会合が開催されるものの、具体的成果を残すことはなかった。

7月3日、法相・小山松吉は閣議で帝人事件捜査の中間報告を行う。この報告は黒田大蔵次官の前月22日付嘆願書に基づくものであり、自らが受け取った帝人株式の一部が高橋蔵相の長男(貴族院議員・高橋是賢これかた)に渡っていたと記されていた。

すでに2閣僚が失脚し、5月19日に黒田が起訴されたことは斎藤内閣が政綱に掲げた綱紀粛正の方針を根底から揺るがすものであった。そのうえ、重要閣僚の親族まで逮捕されれば、政治的影響は計り知れない。ここに斎藤は内閣総辞職を決断し、中間内閣としての2年余りの使命を終えることになる。