地上に痕跡すら残っていない城も

なかでも酷いのは、長岡藩の拠点だった長岡城(新潟県長岡市)である。本丸はJR長岡駅となり、ほかはすべてが市街化して、なにひとつ遺構は残っていない。上越新幹線の長岡駅前に降り立ったとき、ここが城跡だと感じる人はいないだろう。「長岡城本丸跡」と彫られた石碑が駅前に立つが、騙されている気分にすらなる。

長岡城本丸跡・石碑(写真=Rebirth10/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

尼崎城(兵庫県尼崎市)も同様だ。すでに武家諸法度で新規築城が禁じられた時期に、幕府が西国の大名に目配せする目的で築かれた城で、正方形に近い本丸の四隅には、四重の天守のほか3棟の三重櫓が建ち、その周囲は約300メートル四方に堀が三重にめぐらされた壮麗な城だった。ところが、堀はすべて埋め立てられて城内は市街化し、地上に城の痕跡を見つけることはできない。

平成30年(2018)、天守が鉄筋コンクリート造で再建されたが、本丸の跡地は小学校の敷地で整備できず、300メートルほど北西に建てられた。ちなみに、この天守は見栄えを重視して、東西を反転させて再建されたので、「史実に反する」という批判が少なからず存在する。

尼崎城天守閣(写真=KishujiRapid/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

むろん、地震災害や太平洋戦争の空襲などで、不幸にも失われた城の遺構は少なくない。しかし、これほどまでに全国の城郭が破壊されている主たる原因は、明治政府の政策にあった。

日本の城に決定的ダメージを与えた法令

明治維新を迎えた段階で、日本には193の城が存在していた。ほかにも、城持ちでない3万国以下の大名の藩庁が置かれた陣屋や、城に準じる要害を加えると、事実上の城の数は300を超えていた。天守にしても、その時点で70数棟は残っていた。

しかし、明治4年(1871)の廃藩置県で、城の母体である藩という組織がなくなり、旧藩主は華族となって東京への移住を義務づけられた。主を失った城の維持が困難になったところで、明治6年(1873)1月14日、明治政府は日本の城に決定的なダメージを与えた「廃城令」を出したのである。

各地の城は維新後も、皇居(当初は東京城と呼ばれた)となった江戸城と、兵部省の管轄下に置かれた大坂城を除くと、各藩がそのまま管轄していた。それが廃藩置県後は、兵部省陸軍部(改組後は陸軍省)の管轄へと変更になったが、事実上300もある城を陸軍省は管轄しきれない。このため、軍隊の基地として利用できる城と、不要な城とに分けることにしたのだ。

そこで、陸軍省と大蔵省の役人が全国に出張して各地の城を細かく調査。そのうえで、陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分けたのである。