「まさかもう一度、震度7が起きるなんて」

――災害関連死の教訓とはどういうことでしょう。

花梨を亡くしてから、私は災害支援の大きな目的の1つが災害関連死をなくすことだと考えるようになりました。ただいろいろと話を聞いたり、調べたりして災害関連死と言ってもさまざまなケースがあると知りました。

筆者撮影
2016年4月の熊本地震で、次女・花梨ちゃん(当時4歳)を亡くした宮崎さくらさん

災害関連死をなくすためには、過去の災害関連死1つ1つを丁寧に検証する必要があります。

花梨の場合は、生まれつき心臓に疾患があり、酸素を供給するチューブは手放せませんでした。それでも山登りに行ったり、みんなに交じって公園で遊んだりと本当に元気に育ちました。2016年1月末の手術を終えれば、酸素チューブを使う必要もなくなり、夏からはみんなと一緒に幼稚園に通えるはずでした。

手術は成功したのですが、感染症にかかってしまい肺炎を引き起こし、ICUで治療を続けました。まだ4歳でしたから、治療によって身体に負担がかかり、予後がよくなかった。そこで負担が軽い別の治療に切り替えたんです。すると回復の兆しが見えてきました。もうすぐ帰宅できるだろうと私たちは本当に安心したんです。

治療を切り替えた2016年4月14日の夜。熊本市が震度7の揺れにおそわれたものの、治療は継続できました。私もさほど心配はしていませんでした。余震は続くだろうけどその後、徐々におさまっていくと思っていましたから。まさかもう一度、震度7の地震が発生するなんて、想像もしていなかったんです。

医師から告げられた信じられないひと言

2日後の4月16日深夜、突き上げられるような揺れで目を覚ましました。その後、病院から電話があり、病院の機能がストップした上、花梨が入院する病棟が老朽化していて倒壊する恐れがあると知らされました。病院が倒壊する……。最初は理解できませんでした。

転院せざるをえないことは分かったのですが、準備にとても手間取りました。病院にある救急車には輸液ポンプが積めないとわかり、ドクターヘリや自衛隊の大型救急車での搬送を検討しました。けれど、実現できなかった。

結局、病院の救急車から人工呼吸器を降ろし、主治医の先生が手動ポンプで酸素を送りながら福岡市の九州大学病院に向かいました。ふだん熊本市から1時間半ほどの距離なのに、道路状況が悪くて3時間近くかかりました。

九州大学病院は、九州でもっとも設備が整っています。これでもう大丈夫とホッとしたのもつかの間、検査を終えた先生から「熊本に帰れる可能性はほとんどありません。あったとしても数%」と告げられ、言葉を失いました。それまでダメかもしれないなんて、思ってもいませんでしたから。覚悟しました……いえ、でもまだ数%の可能性が残っている。希望が捨てられなかった。

花梨が亡くなったのは、その5日間です。私には「よくがんばったね」「一緒におうちに帰ろうね」と声をかけてあげることしかできませんでした。