「タイムスリップもの」なのに時代考証が粗い

「ふてほど」の市郎は昭和10年生まれの設定だが、昭和7年生まれの祖父たちの姿を思い出して、当時の人がここまでセックスについて公言していたとは思えない。フィクションとはいえタイムスリップものであり、世代・時代のリアリティの欠如は気になる。

©NAMENEKO・J/バンダイ ベンダー事業部プレスリリースより

東京の市外局番が変わる前なのに「東京(03)」が登場し、「薄毛」という言葉の誕生以前に「ハゲ」ではなく「薄毛」と連呼し、「なめ猫」が流行っていた時代に1990年代の「三丁目のタマ」の置物があり、マンガなど読まなかった世代のおじさんが「少年ジャンプ」に夢中、という設定だ。

朝ドラ「あまちゃん」では小道具も含めて「過去」を非常にうまく再現していたので、これが単なる時代考証のミスなのか、それともあえて過去を捏造ねつぞうしているのか(だとしたらなんのために?)、この点もやや残念に感じた。

「ふてほど」が狙うのは令和へのバックラッシュか

もちろんセリフの掛け合いは巧みで、出ている俳優はみな芸達者だ。人情話として見ればおもしろいのだろう。クドカンは、「あまちゃん」で東日本大震災を描き、大河ドラマ「いだてん」では関東大震災を、「ふてほど」では阪神淡路大震災を絡めている。震災での死が運命づけられた父娘――SNSを見ると、そこで涙を誘われた視聴者もいたようだ。

市郎はこう語る。

「今の時代、俺みたいな『異物』が混入してないとダメだと思うんだよな」
「異物?」
「そう、不適切なやつ。世の中が多少マシになって(中略)若い連中が幸せになるまで見届けねえとさ」

市郎は、令和の「世直し」をしているのだ。やれセクハラだ、やれ不倫で謹慎だ、部下を叱ればパワハラだと、「かわいそうな男達」がとっちめられているように見えるのかもしれない。それを昭和からきた市郎が「まあまあ」となだめて、なぜか丸く収まる現代人。そこに論理はないので、唐突なミュージカルシーンになる。