「ふてほど」は男性の同性愛を女性蔑視と結びつけて炎上

存在しないものを提示して「ポリコレやコンプラも大事だけど、ここまで潔癖にするのは行き過ぎ」とたたく。そのズルさに気づいた人が「ふてほど」を批判している。クドカンの過去作を愛する元ファンほど、失望も大きいのだ。

例えば同性愛の扱いも「おっパン」は丁寧だ。壊れそうなものを絶妙なバランスで描こうとする手つきが見られる。子どもの友人(中島颯太)が同性愛者であると知り、主人公の沖田は「ゲイが(自分の子に)うつったら困る」と反射的に言い放ってしまう。

ところがその子は落ち着いて「大丈夫。ゲイはうつったりしませんよ」と答える。最低な発言をした相手を否定はしない。それでいて、ああ、きっと長い時間このことについて考えてきたのだろう、という老成ぶりが伝わるセリフだ。

対して「ふてほど」では、あえてかもしれないが「オカマちゃん」という言葉が何度も登場する(女性装と同性愛は別物だが)。またフェミニスト学者のはずのサカエの次のセリフには何重にも誤りが含まれており、SNSでも炎上した。

「あなた、自分が女にモテないからと言って女性を軽視している。女性蔑視、あなたそういうところがある。ミソジニーの属性がある、昔っから。そういう男に限って、ホモソーシャルとホモセクシャルを混同して同性愛に救いを求めるの。女にモテなくて男に走っているの、わかる? あなた中2病なの」

恋愛だけじゃない、いろんな「好き」を描いた「おっパン」

「おっパン」には、親密な関係をなぜ性愛と結びつけるのか、という根源的な問いさえ登場する。「どうして誰かと仲良くしてると、すぐに好きとか、つきあってるとか考えるの?」。このドラマには恋愛感情だけでなく、推しのアイドルや趣味など、さまざまな「好き」が登場し、それぞれの人生を支えている。

一方の「ふてほど」では主人公が女子高校生である娘に「なにィ!もうチョメチョメしたのか?」と連発する。男女がいれば性愛が発生するはず、でも未成年で娘のお前にはそれを認めない、という中年男性の強い意志が一貫して描かれている。

それでいて子どもの名前は高校生が「純子」で中学生が「キヨシ(潔)」、二人あわせて「純潔」だ。大人の男たるものアダルトビデオとエロ本が大好きなはず、でも子どもは純潔な存在であるべき。この強烈なオブセッションはどこからくるのだろう。