昭和の「男は男らしく」という呪いから解き放たれて
でも考えてみてほしい。昭和と令和を足して2で割って「平成」くらいに薄めて、それが正解だろうか。部活で殴られない令和。同性愛を隠さず生きられる令和。学校にいかなくても他の場所もある令和。セクハラの減った令和。こっちのほうが、少なくとも女性のわたしにとってはずっと居心地がいい。
市郎が令和の男たちに同情するのは、おそらく昭和ではまだ男達が「下駄」を履かされていたからだ。「おっパン」の誠がいう「男は男らしく」に、呪われつつも守られていたのが昭和の男性ではないか。令和になって下駄を脱がされ、「息苦しい」というのは違うだろう。
これはドラマだ、ムキになるな、といわれるかもしれない。ただ「ふてほど」が茶化した数々のテーマは、いずれもこの40年近く、多くの人が戦いながら一歩ずつ進めてきた変化の足跡だ。どうかバックラッシュ(揺り戻し)を誘うようなことをしないでほしい、と願う。
アップデートしたほうが、きっと男性も楽に生きられる
すでに最終回を迎えた「おっパン」ラストカットでは、「誠のアップデートはまだまだ続く」というテロップがあった。「ふてほど」最終回の予告編では、第1話では野球部の顧問として体罰を連発していた市郎が、令和から昭和に戻ると、ケツバットをためらうようにと変化している。サブタイトルは「アップデートしなきゃダメですか?」。
アップデートしなきゃダメですよ、とは思わない。でもきっと、アップデートしたほうが楽しいですよ、とは思う。ドラマ内で吉田羊は「PTA」と自嘲し、戯画的なフェミニスト女性として描かれていたが、たぶん現実にはそんな人は少ない。「おじさん」と敵対したいのではなく、男性が変わるのを待っている女性は多い。
「おっパン」の初回と最終回で比べると、誠の顔つきはまったく違う。これが俳優の演技というものなのだろうが、内面の価値観が変わると、こんなにも人はイキイキとするのか、と思い知らされる。これが「アップデート」のもたらす変化なのだろう。