「君たちはどう生きるか」の破綻とその意味

ただし、青サギは安全で安定的な関係性を保証してくれる存在ではない点には注意が必要だ。青サギには邪悪で危険なところがあるし、そもそも異界の存在なので、人間の友人のように現実世界で維持しうるような関係性を持ちえない。

そもそも論を言うなら、信頼のある関係性とは、盤石とは言えず不確実な関係性において成立するものだろう。青サギは、現在の物語であふれているような、「一度友達になったら何があっても一生マブダチ」という単純な図式に収まらない友人だ。その意味で、眞人が関係構築の練習をするにあたって青サギの存在は欠かすことができない存在だったのである(註6)

『君たちはどう生きるか』©2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli

これまでの議論をプロットの観点から捉え直してみよう。ガーディアン紙のレビューで、「プロットが込み入りすぎている(overplotted)」と形容されているように(註7)、『君たちはどう生きるか』は説明不足な複雑性を持っている。つまり、この物語に綻びを見いだすことは難しくない(註8)

老婆キリコの存在は物語の整合性を壊しているが…

例えば、青サギの性格変化は、仮に眞人の再生の物語に必要なものだったとしても、青サギをよくよく観察すれば、言動や立ち回りに統一感がなく、行動原理が曖昧なので、「キャラクターとして不整合をきたしている」と批判することは難しくない。それに、眞人と一緒に異界に迷い込んだ使用人キリコの存在は、否定しがたい仕方で、物語上の整合性を崩壊させている(註9)。粗を探そうとすれば、ほかにも見つかるだろう。

複雑なプロットが、物語の破綻や謎の過剰をもたらしたと批判することは容易たやすい。けれども、ここでは別の捉え方をしたい。すなわち、「『普通』の家族の再生」を描く上で、そうした複雑性や破綻がどうしても必要だったという解釈である。

英文学者の諏訪部浩一は、現代アメリカの作家が「普通」の家族を描くために、遠回りする迂遠うえんさや複雑性、すれ違いを用いていると論じている。「いわゆる『普通』のアメリカ人を描くには、念入りに語られた複数の物語がぶつかりあう(あるいはすれ違う)という、ともすれば迂遠にも見えかねない道が必要とされる」(註10)。これと同じことが、本作にも言えるのではないか。

(註6)「友達をつくります。ヒミや、キリコさんや、青サギのような」と眞人は口にしている。
(註7)Wendy Ide “The Boy and the Heron review – overplotted Miyazaki still delights,”
(註8)谷川嘉浩「『君たちはどう生きるか』想像と謎解きの快楽もたらす『開かない箱』」朝日新聞デジタル
(註9)終盤には、眞人が異界から現実に戻った際に、使用人キリコの姿をしたお守り人形が、現実のキリコに変化するシーンがある。しかし、キリコ以外の使用人たちのお守り人形が登場していたことを思い出されたい。仮にそれらを持ち帰っていたとすれば、キリコ以外の使用人は現実にとどまっていたのだから、眞人は使用人のコピーを召喚できたことになってしまう。「異界なんだから、別にそれくらいの変なことはあるだろう」と反論することもできるけれども、大叔父やヒミが、かなり説明的に異界のシステムを解説してくれたことを思えば、(作品の面白さとは別の次元で)これを破綻だと認めないことは難しいだろう。
(註10)諏訪部浩一「『偉大なアメリカ小説』を取り戻す?:『世界文学』時代のアメリカ小説」『ユリイカ』49号, 2017, p.162