アメリカ公開版のタイトルは「少年と青サギ」に変更された
ジュブナイル小説では、しばしば内向的な青年の孤独感やわだかまりに焦点を当てる。ただし、その内向性が「理解ある優しい父親」の下でこじれて、複雑な感情を蓄積させるというスタート地点を設けた点で、『君たちはどう生きるか』は興味深い。
眞人の視点からすると、優しい父の下でこじれた葛藤や情念をどこかに吐き出す必要が出てくる。恐らく、眞人は無意識に葛藤のはけ口となるような非日常的な体験(日常の外部)を探していたのだろう。
たまっていく感情の受け皿となったのが、菅田将暉が声優を務め、英題のタイトル『THE BOY AND THE HERON』にもなっている「青サギ」である。疎開先に来てすぐ、眞人は青サギが自分に邪悪な関心を向けているらしいことに気づく。それをきっかけに、青サギを見つけるたびに注意の目を向け、彼を仕留めて青サギの脅威を排除しようと行動を始める。私たちが注目したいのは、眞人が青サギに対して異常なほど熱中していることだ。
眞人が青サギに夢中になる理由が、作中ではほとんど説明されない。もちろん、青サギは人語をしゃべるなどの不可思議な出来事が直接のきっかけなのだが、「理解ある優しい父」と彼への反抗不可能性に注目した方が、眞人があれほど夢中になった事情をより深く理解できるだろう。
眞人にとって青サギは、自分を取り巻く諸々の問題や自分のわだかまりを忘れさせてくれる逃避先としてちょうどよかった。それが与える恐怖も含めて、日常のしんどさを忘れさせてくれる「外部」の雰囲気を感じることができたのだ。
眞人が「自分の問題」に向き合うきっかけは、なぜ青サギだったか
この「青サギ」とは、どんなキャラクターだろうか。青サギには、眞人を異界に連れ去り、利用しようとする邪悪さがある。だが、実際に眞人を異界に連れ込むことに成功すると、いたずら好きな心と微妙な鈍臭さで、秩序を撹乱する振る舞いをするようになり、その邪悪な本性をいくらか後退させる(註4)。それと同時に青サギは、眞人の仲間や庇護者のような位置に収まっていく(註5)。
青サギの性格や役割の変化に注目すると、この変遷は、眞人が「自分の問題」に関心を移していくプロセスと連動していることがわかる。つまり、青サギと関係を築くことで、眞人は家族をめぐる自分の葛藤と対峙することができるようになったのである。
有り体に言えば、友人関係ができたおかげで、心に傷を負った少年が、自分の問題に集中することができるようになった。眞人が、現実の人間関係を再構築できたのは、青サギのおかげだったのだ。
(註4)物語類型論における、「シェイプシフター」と「トリックスター」と「賢者」を併せ持つような役割を、青サギは担っている。ここに「込み入りすぎたプロット」の片鱗を見いだすことができる。
(註5)ジブリ作品には、最初は悪としての顔を見せながら、途中で大人しい姿に変形して主人公とともに旅をする仲間のような存在になるキャラクターが出てくることが珍しくない。代表的な事例でいえば、『千と千尋の神隠し』のカオナシや坊、湯バード(カラスのような造形)。いずれも、その役割変化に合わせて、恐怖を誘う造形から、ユーモラスでデフォルメされた造形へとシフトしている。