紫式部は女性にとっての「経済」の重要性が分かっていた

ちなみに国宝「源氏物語絵巻」にも末摘花の屋敷は描かれています。源氏は須磨・明石で謹慎中、すっかり末摘花のことを忘却していたのですが、帰京後、花散里を思い出して訪れる道すがら、花の香りに迷って、広い荒れた屋敷に足を踏み入れたところ、そこが末摘花の屋敷であったと。

それこそ豪華な「王朝絵巻」の国宝「源氏物語絵巻」の中で、この「蓬生」巻の場面だけが異彩を放っている。寝殿造りの簀の子(廂の外に設けた縁側)はあちこち底が抜け、几帳もぼろぼろ、仕える女房の顔も服装も貧相。そこへ、ボロ屋に似合わぬ狩衣姿の乳母子・惟光の先導で、傘を差し掛けられた源氏が訪れるという趣向です。

このように『源氏物語』には貧乏がとてもリアルに描かれています。

給与状態なんかも描かれています。

たとえば源氏が晩年、女三の宮を正妻に迎えると、それまで正妻格だった紫の上の立場は低いものとなり、「私の人生何だったのか」という思いになってくる。その時の状況を、物語はこんな感じで描写しています。

江戸時代(18世紀)、鳥居清長作「紫式部」/東京国立博物館蔵(出典=国立文化財機構所蔵品統合検索システム

天皇の姉妹である女三の宮や「実家が太い」明石の上

姫君を生みながら忍従の日々を強いられていた明石の君とその一族は、姫君の生んだ皇子が東宮となり、その幸運は明石の君の母・尼君にまで及ぶ。

さらに、女三の宮は今上帝の姉妹ということで重んじられ、「二品になりたまひて、御封などまさる。いよいよ華やかに御勢いきほひ添ふ」(「若菜下」巻)

と。

御封というのは、封戸のこと。院や宮、親王、諸臣、特別の社寺などが、位階や官職・勲功などに応じ、朝廷から一定数の民戸が支給され、その民戸からの租税が得られる仕組みのことです。

二品に昇進した女三の宮の封戸は、「封三百戸、位田四十二丁」(日本古典文学全集『源氏物語』四)。当時は妻の私有財産が認められていましたから、これは女三の宮個人が得られる収入です。

このように明石の君や女三の宮は、世間の声望のみならず、収入も増えていく。それに対して紫の上はこう思ったと物語は言います。

「対の上(紫の上)は、このように年月と共に、さまざまに高まっていかれる方々のご声望に対し、我が身はただ夫である源氏の君お一人のご待遇は人には劣らないけれど、あまり年を取りすぎれば、そのお気持ちも次第に衰えていくだろう。そんな目にあう前に自分から世を捨てたいものだ」(対の上、かく年月にそへて方々にまさりたまふ御おぼえに、わが身はただ一ところの御もてなしに人には劣らねど、あまり年つもりなば、その御心ばへもつひにおとろへなむ、さらむ世を見はてぬさきに心と背きにしがな)