USENは負の遺産を背負って始まった会社
少し話は戻りますが、私が引き継いだ当時の大阪有線放送社は、“違法企業”といっても過言ではない状況にありました。有線放送のケーブルを張り巡らせるために、全国の電柱を無断利用していたのです。そのケーブルの長さは、地球3周分。撤去して正常化するためには、500億円の資金が必要でした。また、父の個人債権800億円もあり、USENは大きな負の遺産を背負って始まった会社だったわけです。にもかかわらず、当時の私は、新しいピカピカのベンチャー企業と同じ振る舞いをしていました。
ただ、時代に食らいつかなければという焦燥感と同時に、事業を通じて社会を良くしたい、日本を強い国にするんだ、という思いもあって。それは、有線のネットワークを使った光ファイバーで映像配信サービスを普及させることでした。電柱の正常化を完了し、光ファイバーのインフラ整備を手掛けた直後の2005年には、無料ブロードバンドサービス「GyaO」をスタートし、コンテンツ事業にも参入していたのです。
「私が死んだとて、状況が改善するわけではない」
そんな最中にリーマンショックが起き、子会社を含めて1000億円以上の損失が計上されました。連日、昼夜問わず銀行から「どの会社売るか決まった?」「再建案を出せ」という電話が入り、相当、いじめられました。結局、インテリジェンスやGyaOをはじめ、自分が手掛けた企業を売却せざるを得なかったわけですが、それは自分の子どもを売るような苦しみでした。正直、今も思い出すと辛いものがありますし、首をくくろうと考えたことも、一度や二度ではありません。でも、現実を見れば、私が死んだとて、状況が改善するわけではないこともわかっていて。やはり、自分の選択肢としてその逃げ方はないと思いました。
特に思い入れの強かったGyaOをヤフーに売却した時は、苦労を共にした仲間のことを考えると本当にやるせなくて。「ふざけるな!」といった罵声を浴びせられることも覚悟して社員にお詫びをしたんです。すると、「サービスを続けてくれる道を残してくれたことに感謝します」と、逆に御礼を言われて。その時ばかりは、思わず涙が出ました。自分は辛いと思っていても、その先で幸せに働けている人もいる。であるなら、自分は一体何に苦しんでいるのだろうと思いました。