政治批判の出版物を禁じ、言論統制をした負の面もあり
定信の寛政の改革においては、凶作や災害に備えた金銭・米穀の貯蓄が全国的に行われます。この対策などは、危機管理の観点から見ても、現代においても有効でしょう。寛政の改革には、このような光の面もあれば、影の面もあります。思想・情報の統制、朱子学以外の儒学を禁じた「寛政異学の禁」、風俗を乱す好色本や、政治批判の出版物を禁じた出版統制令などは、現代から見ると、影の部分でしょう(寛政異学の禁は、幕府に忠実な官僚育成の意図がありましたが)。
定信の改革には良い面・悪い面、成功と失敗、さまざまありますが、筆者が好きなのは、定信の政治にかける想いです。例えば、徳川幕府の老中首座となった松平定信は、老中就任の翌年(1788)正月、霊厳島吉祥院(東京都中央区新川)に願文を捧げます。その中には、自身と妻子の命に代えて「金銭や米穀がよく流通し、下々の者が困窮に陥らず、(幕府将軍の)威信や仁恵が行き届き、中興が成就すること」との文言があるのです。
現代の政治家は口では「国民のため」とか「身命を賭して」と言いますが、それがどこまで本気か疑わしいものです。しかし、定信は神仏にわが命に代えてと願っているのですから、その想いは本物でしょう。
自叙伝で「情欲に流されたことはない」と断言した定信
ちなみに、定信の正室は、養父・松平定邦(白河藩主)の娘でした。定邦の娘がどのような人柄であったかは不明ですが、定信は自叙伝『宇下人言』において、独特な性交観を披露しています。「房事(性交)は子孫を増やさんがために行うのだ。情欲に耐え難いと思ったことはない」と。定信には側室もいましたが、国元へ帰る際も「老女」のみを連れて行ったこともあったそうです。世間が凶作で苦しんでいるときに、婦女を多く連れ行くことを嫌ったのでした。
定信に言わせると、それは「一つの慎み」でした。余談となりましたが、筆者は定信の政治家としての姿勢を評価しています。また、改革の実績も残しているのですから、有能な政治家と言えるでしょう。
ちなみにドラマ「大奥」では定信と主人公、家治の御台所・五十宮倫子が幼なじみという設定のようですが、それは史実ではありません。