「人間の“本音”」を描くのが週刊誌の真髄
新聞がニュースの主流派、「王道」を歩むメディアならば、週刊誌は『週刊新潮』のドンとして知られる斎藤十一的な「俗物主義」を歩み続けた「異端」のメディアだ。
人間はどんなに立派なことを言っていても、たとえ成功を収めていたとしても一皮剥けば誰でも性やカネといった欲望にまみれている。そんな人間の“ホンネ”、本性を忌憚なく映し出すメディアとして成長してきた。人間の俗っぽい行動や感情を取り上げ、社会に新聞やテレビとは違う角度から刺激を与える。それが週刊誌のアイデンティティの一つである。
その意味では、単なる著名人ではなく、お笑い界の象徴的な存在である松本、日本代表の主軸でもある伊東の「俗っぽい一面」を書き立てる報道は、週刊誌報道の真髄とも言える内容だ。
「たかが、週刊誌」「どうせ、週刊誌だから」のたかが、というのは王道とは異なる角度から踏み込んだ記事を書く異端のメディアに対する見方でもあった。「たかが、週刊誌」だからこそ下世話な話を掲載できるのであり、王道とは違う。しかし、「されど週刊誌」であり、新聞やテレビにはおよそ掲載できないネタを掲載できる異端の価値を持つという含意もあった。
大きく変わってしまったのは社会の受け止め方のほうである。
新聞と週刊誌の取材はなにが違うのか
決定的な転機はハリウッド発の「#MeToo」運動に求めることができる。権力関係にものを言わせた「性加害」は黙認されていいものではなく、単なるスキャンダルで終わらせず、ニュースとして報じるべきものであるという認識が世界的にも広がった。その余波は日本にも確実に届いている。一連の動きは日本においてもこれまでのニュースの常識や役割分担をも決定的に変えてしまい、下半身スキャンダルはニュースの主役へと受け止め方が変わった。
個人的な仕事の話になるが、私は『週刊文春』経験のある編集者らとチームを組んである取材対象を追いかけたこともあるし、新聞記者時代から現場で鉢合わせた週刊誌記者とともに取材をする機会も多かった。総じて言えるのは、週刊誌だからといってファクトの裏取りが極端に疎かであるとか、取材力が劣るということはまったくない。だが、違いはある。
メディアの特性を踏まえてどのファクトにより重みをつけるか、言い換えればファクトとして強調する部分をどこにして、どこを捨てるかという判断はやはり異なるのだ。
私が在籍していたころの新聞社ならば単に「こう訴えている人いる」がいるという点だけに強く寄りかかることはせずに、警察や司法当局の動きを追いかけ、より深く取材を重ねながら当局の判断を踏まえて記事化の検討に入る。当局が動かない、もしくは捜査が水面下で進展しているときの報じ方は良くも悪くも抑制的になる。
良い面は石橋をかなり丁寧に叩いて渡ることで、法的なリスクを極端に軽減しようとすることだ。悪い面はニュースの進展が当局の判断次第になりがちなことだ。無論、当局がまったく絡まない独自ネタ(俗にいう「調査報道」である)も追いかけるが主流は当局絡みだ。
週刊誌にはこのような抑制はなく、独自のリーガルチェックや価値判断をより重視する傾向が強い。新聞は訴訟にまで「持ち込ませない」ところまで固めた記事を目指すため踏み込みを加減する。週刊誌は訴訟になっても「負けない」レベルで切り口や踏み込み方で独自性を磨くといったところか。